社会福祉法人風土記<32>日向更生センター 下 誇り持って高齢者を支える

2018年0201 福祉新聞編集部
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ホームの高齢者が幼稚園児らとふれあうグラウンド。三浦昭典介護課長・主任介護士(左)と伊東光洋・主任生活相談員

 黒木利克・初代理事長は連合国軍の占領期(1945・9〜52・4)、現在の政策につながるGHQの福祉政策をどう見ていたか。

 

 自著『現代社会の福祉事業の展開』(1951年刊)で、幾多の困難はあったが民主的方法で社会福祉事業法(後の社会福祉法)は成立したとした上で、〈総司令部の高官の文書に「日本の社会福祉機構こそはアメリカよりも先を行っている」とある〉と当事者としての自負を込めて述懐している。

 

 戦前、大分県知事、厚生省生活局長だった灘尾弘吉は、「国民健康保険法」(38年成立)、「労働者年金保険法(後の厚生年金保険法)」(42年)が日本の現在の社会保障の柱とした上で、〈戦前、厚生省が実現しようとして、できなかった福祉立法など、進駐軍(GHQの指揮下)の後押しでできたものも少なくないのですよ〉(『灘尾弘吉先生と語る』)。それは黒木が立案に関わった「児童福祉法」(47年)、「身体障害者福祉法」(49年)、「生活保護法」(50年)、「社会福祉事業法」(51年)を指し、黒木が前述するところとも符号するのである。

 

 これらの法整備があり、その延長線上に各地の福祉事業がある。宮崎市も例外ではない。宮崎市から運営委託されている宮崎市養護老人ホーム「清流園」の鬼束和仁施設長(52)は、運営委託時に、生活相談員を求めていると聞き、民間会社から転職した。

 

 「ここは、元気で自立した人から要介護5の人まで幅があります。こういう人たちに安心して生活してもらうのが、措置施設としての養護老人ホームの役割です」と穏やかな口調で語った。

 

「清流園」の鬼束和仁施設長

 

 住人の80歳の小柄な女性が部屋を見せてくれた。「2年前に北九州から50年ぶりに宮崎に帰ってきたの。皆さん親切でお迎えが来るまでここにいたい」と満面の笑顔で話す。

 

 他方、笑顔でいられない人がいるのも事実。ロビーの車イスの人たちは穏やかな顔をされていた。

 

 この施設は渡り廊下で放射状に市立幼稚園(定員50人)、市立学童クラブ(定員80人)がつながっており交流がある。高齢者は子どもと時に遊び、子どもも普段、高齢者に触れる機会が少なくなったので、情操教育のためにもこの環境が良いと、鬼束施設長は話す。

 

 三浦昭典・主任介護士(45)は、「(センター内の前職で)皇寿園のデイサービス(通所・1992年開業)を担当しましたが、その中で終戦1年前の44年に沖縄から宮崎に学童疎開し、そのまま宮崎市に住み、困窮した人の生活環境の改善を手伝いました」。

 

 実は宮崎県には44年8月19日に沖縄から第1陣として131人が来ている。その後も続き計3208人が、県内11町21村に疎開したと宮崎市立図書館提供の記録にある。この3日後の22日には沖縄の那覇港から長崎県に疎開する学童834人を乗せた日本郵船の「対馬丸」が出航したが、途中米軍の潜水艦によって撃沈される。生存者59人であった(沖縄・対馬丸記念館調べ)。この時期には台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡でも多くの日本の民間人を乗せた輸送船が沈んだ。

 

 ところで翌年3〜6月の沖縄戦によって、沖縄県民だけで12万2000人が亡くなる。その悲しみは「さとうきび畑」(作詞作曲・寺島尚彦)によって現在に伝えられていることはよく知られている。

 

 亡くなった県民の中には疎開学童の肉親もおり、その学童は帰るに帰れなくなり、時を経て宮崎市内で心ならずも生活困窮者になった。以前、「皇寿園」のデイサービスを担当した職員たちはこういう境遇の人たちを支援していたのである。

 

 この一つを取っても、泉下で黒木初代理事長は、立案した法律で「戦争犠牲者を救えた」と思われているのではないかと関係者は語った。

 

 伊東光洋・主任生活相談員(44)は、寮母だけだった世界に寮父第1号として入り、20年余の経験がある。「(施設では)利用者と職員はお互い感謝、〝ありがとう〟が大切。時には我慢が求められます」と静かに語った。

 

 1993年、宮崎市の委託により在宅介護支援センター、94年には在宅ケアセンター(老人居宅介護)と事業を広げてきた日向更生センターの歴代理事長を紹介しよう。2代目池田浦吉は宮崎日日新聞社取締役などを歴任し就任。3代目黒木健次は初代理事長の次男で黒木内科医院長時に就任。4代目鶴田順三郎は宮崎市福祉部長など歴任し就任している。

 

 そして、2004年4月24日、天皇、皇后両陛下が「皇寿園」を訪問された。その時の応接室(会議室)で、5代目黒木茂夫理事長は、将来像を次のように描いた。

 

 「私たちは常に利用する立場の人を尊重し、その人たちの人間としての尊厳を忘れてはならないと思います。一方、何かと話題になる『2025年問題』。人口の最も多い団塊の世代が、全員75歳以上の後期高齢者になる時、私たちは何をしたらいいかということですが、間違いなくこのセンターは宮崎市、宮崎県の地域センターの役割を担うことになります。きっと地域の人に頼りにされるでしょう。そのためには黒木利克・初代理事長が切り開き、続く人たちが歩んで来た道を行くと同時に、10年先、その先を見据えて〝福祉の仕事は国の土台を作る仕事〟という気概と志を持った人材の育成と発掘が使命だと思います」。日向更生センターの今後の方向が定められた。

 

【髙野 進】

 

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