社会福祉法人風土記<37>阿波国慈恵院 中 うれしかった「ララ物資」
2018年06月21日 福祉新聞編集部
大正から昭和にかけて阿波国慈恵院が広く寄付を募るために作ったお願い文は次の通り。
「仁慈深き篤志家各位にお願い申します。親のない子供、貧しい子供たちにどうか御同情下さい。無邪気な子供、罪のない子供をどうか可愛がって下さい。近時の不景気は寄付金激減を来しましたが、可憐な子供は日々増加しますから、其経営は困難となりました。何分此度に頻せる本院の為に、應分の御寄附をお願いします」(原文まま)
加えて現状について触れている。1歳から19歳まで男79人、女33人の合計112人が入所していると。
時代を追ってみたい。慈恵院は1928(昭和3)年、恩賜財団慶福会(現慶福育児会)と徳島市補助金によって本格的な改築を実施(記念碑あり)。翌々年には昭和恐慌発生。32(昭和7)年、「救護法」制定。経済が厳しくなる中、人買い、軽業曲芸、年季奉公など児童労働、児童虐待が常態化してきたために、時の政府は「児童虐待防止法」や「感化法」に代わる「少年救護法」を34(昭和9)年に制定するなどして、児童、少年に対する法律だけは整備した。そして、38(昭和13)年には「社会事業法」を制定し、民間の事業体である慈恵院などにも、助成金が拠出されるようになった。しかしそれは、経営資金の3割にも及ばないもので、増加する養護児童の対応がますます厳しくなった。翌年には「母子保護法」によって、慈恵院でも母子寮を併設。このような国内事情を抱える中、日本は41(昭和16)年、太平洋戦争に突入していった。
この2年前の39(昭和14)年、児童養護に生涯をささげた北条義雄は世を去った。
45(昭和20)年7月4日未明、米軍のB29爆撃機129機が、徳島市に来襲し62%が焼土となり、死者約1000人、負傷者約2000人であった。作家、森内俊雄は『眉山』(1974年刊)の中で、「川筋の上空で炸裂した火は、無数の火の筋となって降ってくる。地に刺さり埋まると、そこから焔が噴き出た」(抜粋)と描写している。この時の遺構が新町川沿いに建つ国際東船場113ビル(旧高原ビル)である。慈恵院の母子寮も焼失したが、幸い類焼を免れ母親、児童は無事だったと記録にある。翌月、広島、長崎に原爆が投下され敗戦となった。
ところで、慈恵院は戦後どのように運営されていたのかを『阿波国慈恵院百年史ーー保育園三十年史』(2000年刊)によってつづる。当時、院内には、60人ほどの浮浪者や家のない子がいたが、食べものはまるでなく、寝具もなく、院児は子犬のように寝ていたと。山口義晴第2代院長(1906~62)自身も買い出しに行き警察に捕まり、ついにはオカラ、芋がらを食べたと語っている。49(昭和24)年、保母(1999年から保育士制度移行)として働くことになった太田勝子第3代院長(1907~98)も同様に苦労を共にした。また、山口憲志第4代院長(90)は小学校低学年だったが、「子どもらに食べさせるものがなく困った職員が母・ナミエに相談に来ていた。母は衣服と食べものを交換しに行って得た食べものを職員に持たせているのを覚えている」と言う。
この時、海の向こうで「祖国を救おう」と北米、中南米、ハワイの在留邦人、日系人が立ち上がった。米国の宗教団体、慈善団体が加わり集められた救援物資は、1946(昭和21)年から52(昭和27)年までの6年間に、推定400億円にもなった。この物資が「ララ物資」と言われるもので、多くの日本人、とりわけ乳幼児、児童を飢餓から救ったのである。詳細は『ララ物資記念誌』(厚生省・1952年刊)にある。
果たして慈恵院にも届いていた。その様子を『徳島新聞』(昭和23年10月11日付)は、〝子ら大喜び〟と大きく写真入りで報じた。行政では『徳島レポート』(昭和27年6月号・徳島県広報課、提供・県立図書館)が「ララ物資感謝祭」を伝えている。
また、慈恵院のことも知る、板野郡出身で『パラグアイ移住五十年史』(JICA横浜海外移住資料館蔵)刊行に尽力した岡崎敏直氏(76)は「昭和21年、満州(中国東北部)から引き揚げて収容されたのが、坂東俘虜収容所跡(鳴門市)の陸軍兵舎(引揚者収容所に転用)だった。毎日トウモロコシが支給されたが、靴ももらいました。これが『ララ物資』と知るのは後のこと」と語った。
なお、1917(大正6)年から20(大正9)年まで、ドイツ兵約1000人が収容されていた坂東俘虜収容所は、当時の松江豊寿所長(会津若松市生まれ。1892~1956)の人道的な運営とともに知られているが、戦後、引揚者収容所であったことを知る人は数えるほどである。
ところで、徳島県児童ホーム(城東町)の施設長で慈恵院監事だった坂野賀夫氏(故人)が、「当時の孤児は悲惨だった。慈恵院でも焼け残った木造院舎に大勢の飢えた子どもを抱え、食料確保に懸命だった」と振り返った遺稿がある。
【髙野進】
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