社会福祉法人風土記<40>しらゆり会 中 恩返しは〝福祉の道〟 

2018年0921 福祉新聞編集部
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救護施設「泉の園」

 1960年代に入ると高度経済成長の波は松江市にも及び、市近郊の農村地帯には新しい住宅が次々と建設され人口も急増した。生活水準が向上、女性の社会進出で、〝かぎっ子〟いわゆる「保育に欠ける子」への対応が浮上し保育園建設の要望が高まってくる。そんな社会情勢の中、国頭正巳・初代理事長(92)は社会福祉の道に足を踏み入れ「しらゆり保育園」開設をめざす。

 

 「昭和39年に自宅を全焼し多くの人に助けられた。それまで算盤事業などの成功は自分の力だと増長していたが、この火事で人の情けを知り、世間へ恩返しをしたいという気持ちが生まれたのが契機」だと語る。

 

 しかし、1967(昭和42)年の保育園開園までの道のりは平坦ではなかった。園舎の建設工事は予定通りには進まず、4月の開園時は個人宅を借りた。認可も間に合わず、園児はたった6人だった。それでも同年10月に園児は60人となり、翌年に財団法人認可、71(昭和46)年には社会福祉法人しらゆり会に組織変更。さらに翌年「しらゆり第2保育園」を開園する。

 

 荒木卓・元しらゆり保育園長(1922~2005)は『記念誌』の中で「保育園建設の要望は多かったが、いざ開園すると市内のどこの保育園でも園児がなかなか集まらず皆苦労した時代だった」と述べている。その後、法人はさらに2園を開設。現在、法人の経営する保育園は4園、定員は合計600人となっている。

 

 1975(昭和50)年4月に救護施設「泉の園」をオープンした。当時、国の建築基準面積が1人当たり14・6平方メートルのところ、「泉の園」は24・6平方メートル。初代理事長は理想実現のためには妥協しない人だった。

 

 3年後には知的障害者授産施設「希望の園」を開園。「救護施設同様、県の勧めで始めたものだったが、理事長は既存の制度には縛られず進めていくので役所とはズレが生じる。建設予定地も値段をつり上げられ買収ができないなど二転三転。やっと開設した」と国頭正治・現理事長(64)は言う。

 

 

国頭正治理事長

 

 

 制度改正により障害者支援施設となった現在の「希望の園」の状況について、岩田薫係長(47)は「生活介護支援は従来同様に力を入れている。就労継続支援B型事業としてはパン作りとクリーニングを行い、就労移行支援事業では毎年1~2人を一般就労に結びつけているが、なかなか難しい面がある。もっと努力したい」と語る。

 

 1980(昭和55)年には身体障害者福祉工場「ワークセンター島根」(現在は就労継続支援A型事業所)を開設。当時、福祉工場は全国で20カ所、県内では初という時代、国の運営基準も制定からわずか10年足らずで運営は暗中模索といった状況だった。

 

 一般企業での雇用が困難な人の就労の場の開設だった。産業基盤の弱い島根県で一定の仕事量を確保することは難しかったが、大阪に本社を置くコクヨ(株)との再三の交渉を経て提携が実現し、バインダーとファイルの生産のめどが立った。ところが、定員50人に応募者が23人しか集まらなかった。福祉事務所などの協力を得てやっと定員を確保した。

 

 「まだ福祉工場への理解が浸透していない時代だった。開所式では、初めて賃金を得るための仕事をする人を前にして、職員は皆、一人前の企業にしなければと心に誓った。しかし、一生懸命作ったバインダーとファイルは不良品が多く、ほぼ全部返品されてきた。機械も1台しかなく、止まると仕事にならないので担当者は機械調整に休日も出勤するなど懸命な努力をした。徐々に軌道に乗ったが、コクヨさんが良い製品ができるまで辛抱強く待ってくれ、感謝しています」と当時福祉工場長だった正治・現理事長は語る。

 

 続いて、身体障害者療護施設=1986(昭和61)年開設=に取り組む。もともとは隣の鳥取県から開設を頼まれたものだったが、鳥取県の議員らから「正巳理事長は生まれは鳥取だが法人は島根だ。彼は事業家だが福祉家ではない」などと反対にあう。しかし、法人の地域住民への丁寧な対応が結実し、鳥取県境港市にオープン。施設は「光の恵みと海の恵みが集まる境港」を意味する「光洋の里」と命名され無事船出した。

 

【荻原芳明】

 

 

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