社会福祉法人風土記<41>北海道家庭学校 中 逃亡による悲劇にも開放貫く

2018年1011 福祉新聞編集部
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開拓途上の様子を伝える当時の写真

 今風に言えば、日本の社会福祉事業におけるレジェンド(伝説的偉人)だろうか。少年感化教育の基礎を築き、その施設運営を70年の生涯にわたって実践した留岡幸助(1864~1934)のことだ。

 

 若い頃からキリスト教の牧師や、罪人を教えさとし正しい道に導く教誨師を務めた経験から、「諸悪の根源は少年時代の家庭生活にある」と喝破。自ら1899(明治32)年、東京・巣鴨(今の豊島区)に私立の感化院「家庭学校」を創立し、校長を務めた。

 

 留岡にはもう一つの顔があった。その後、内務省顧問など公職を15年間も務め、少年の感化教育の理論と実践法や欧米の進んだ施設の実態について、国内各地を回り100回以上もの講習会を続ける一方、著述活動も活発に行う啓蒙家、研究者の顔だ。その間、二宮尊徳の報恩思想に惹かれ、今で言う地方創生、地域開発を説くようにもなっていた。

 

 「人は土を化し、土は人を化す」

 

 この言葉に強く共感した留岡は1914(大正3)年、北海道の東部、今の遠軽町の未開の原野を国からの払い下げで手に入れ、理想の感化院建設を始めた。既に50歳だった。それが今の北海道家庭学校の原点となった家庭学校北海道分校だ。

 

 と同時に、新天地にコロニー(開拓植民共同体)を建設しようと「北海道農場」を開き、数人の同志たちと開墾事業にも乗り出した。当時の北見国紋別郡上勇払村に広がる社名淵の750町歩と白滝の300町歩、合わせて1000ヘクタール余の山林開墾が始まった。

 

 地主の家庭学校が小作人を使い、農業・酪農収入で経営を安定させるという計画。家庭学校を〝卒業〟した少年たちがそのまま小作人として自活するという設計図だ。開拓当初数人だった小作人も8年後には28戸に、2頭から始まった乳牛ホルスタインも32頭に増えていた。

 

 教育の実践(感化部)と地域開発の実現(農業部)という二つの柱は不即不離の関係だった。「農業部が成功しなかったら、この地における私の感化事業も失敗に終わってしまう」というくらい、必死の覚悟があった。不良少年や問題児を感化・矯正するには、農作業のような額に汗しての労働とともに勉強をする
「能く働き、能く食べ、能く眠る」、三能主義こそが最もよいと唱えた。

 

 東京で開いた家庭学校での15年間の成果を「(預かった青少年の)百分比例の八十八(88%)は善良になった」と自賛。この小仕掛けの成功を基にして、「今少しく大仕掛けに私の教育法を実施してみたい」と広大な自然の中で理想の純化に挑戦したのだ。

 

 不良少年たちを懲罰的施設に閉じ込めることに反発した留岡は、キリスト教精神のもとに家庭的な雰囲気の中で教育的施設を運営しようとした。他の感化施設とは異なり、逃亡防止の高い塀や格子、鍵はなく「開放処遇」が基本だった。 

 

 だが、1900年の感化法公布以降、全国に感化院設置が義務付けられて、09年に民間施設の家庭学校が東京府の代用感化院に指定され、敷地の一部に屏で囲まれた新寮舎が建てられた。

 

 「愛は最も堅固な障壁である」というキリスト教の理念を胸に灯し続けた留岡は、その現実と見返りに得ていた公的資金援助を忸怩たる思いでかみしめていただろう。そこで、北海道でこそ理想の施設が実現できる、雄大な自然が子どもたちを包み込むからだ、と。しかし――。

 

 「感化院から教護院への(家庭学校の)長い歴史は、少年たちの無断外出の歴史でもありました」

 

 5代目校長(在職1969~97年)の谷昌恒が同校の機関誌「ひとむれ」の中で述懐する。谷が就任4年目の73年8月、最悪の悲劇が起きた。施設を逃走(無断外出)した4人の少年のうち3人が町内で盗んだ乗用車を無免許運転、パトロール中の警察官に追われ逃走した揚げ句、石狩川を泳いで渡ろうとして溺死したのだ。

 

 「あなたたち3人が死んだ今、諸君のことはよく分かっているような思い上がりが砕かれて、私たちはあなたたちの気持ちを聞こうとしていただろうか、あなたたちの心の一番奥にある気持ちを聴いてあげていただろうか、私は深く反省させられております」

 

 3人の校葬で、谷は沈痛な言葉を連ねた。

 

 全国ニュースにもなり、テレビや新聞からは「少年たちとは信頼と愛情だけで結ばれていたいという理想はわかるが、実際に地域社会に迷惑をかけていてはきれいごとに過ぎないのではないか」と厳しい批判を浴びせられた。

 

 苦境に立たされたクリスチャンの谷は、それでも留岡が掲げた理想の旗は降ろさなかった。こんなエピソードがある。

 

 全国の福祉施設から研修にやってくる実習生たちが、少年たちと接する時、まずその子らのケースレコード(過去の履歴・事件記録)を見たがった。それを戒めて、谷はこう訴えた。

 

 「専門家の卵であるあなたたちは、目の前の少年たちとじかに触れて、何の構えることもなく裸で付き合ってください。全面的に受け入れ奥深く胸の中に抱きとめることが大切です。過去を乗り越えようとしている一人ひとりの少年は、それを望んでいるはずです」

 

 創立104年を迎えた今も、北海道家庭学校の正門は開かれたままだ。

 

【網谷隆司郎】

 

 

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