社会福祉法人風土記<42>思恩会 続 きっかけは孤児との出会い

2018年1206 福祉新聞編集部
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明治30年代の濃飛育児院の子どもたち

 社会福祉法人思恩会には、明治、大正、昭和にわたる前史がある。それは1895(明治28)年5月に岐阜県古川町に設立した飛騨育児院から始まる。創設者、五十嵐喜廣は北米の宣教師と共にキリスト教の伝道が難しいと言われた岐阜県吉城郡船津町(現飛騨市神岡町)、古川町(現飛騨市古川町)のあたりに前年の94年に入った。

 

 当時、人口1万1421人の古川町には、大きな鐘楼を備えた浄土真宗の真宗寺、本光寺、円光寺の三カ寺があるほどの町。加えて1623(元和9)年から、江戸幕府の切支丹禁止政策によって、キリスト教を耶や蘇そと言って拒否する風土が出来上がっていた。1872(明治5)年に「宗門人別帳」が廃止され、信教の自由が認められて既に20余年がたっていたが、この状況下での伝道であった。

 

 そんな中、富山県側から船津にやって来た年端のいかない子が孤児と分かり、仮住まいに預かる。95(明治28)年の大火で焼け出されてしまった。そこに救いの手を差し伸べたのが、古川町で旦那様と呼ばれ、漢字、絵画の心得もある教養人、本田六三郎(秋守。1855~1919)であった。孤児が増えてくる状況を見て、五十嵐の家にお手伝いも付けて無償提供する。そこに五十嵐は飛騨育児院の看板を初めて掲げた。本田は1897(明治30)年には町長に就任。人物像について、『み恵みに生かされて―創立110年の歩み』(日本児童育成園・2005年刊)の執筆者・道下淳(元岐阜新聞編集局次長)は、「自己を語らなかった」として、業績が今日になっても埋没していると指摘する。

 

 本田の屋敷は今も古川町弐ノ町商店街に、黒漆喰の土蔵と共に残されている。五十嵐は終生、恩師、師として敬愛していたという。

 

 しかし、1年後この地を去り、151キロメートル離れた岐阜に移る。当初、預かった数人の児童と共に転々とするが、折良く伊藤博文公、大隈重信、副島種臣らの支援もあって、岐阜市珠城町に濃飛育児院と改称して開設。同年7月の西濃水害で被災した児童も預り42人になった。

 

 同時期の94(明治27)年、同市神田町に英国人婦人の寄付によって、英人宣教師と森巻耳(1855~1914)は、91(明治24)年、濃尾地震の被災盲人の救済をきっかけに岐阜聖公会訓盲院(現岐阜県立盲学校)を設立。盲人のみの学校としては全国3番目の開校であった。石井十次も児童救済に岐阜に入っていた。

 

 そして、五十嵐の方は、97(明治30)年から国内外への分院開設、支部設置活動を始める。国内は愛知県豊橋市を皮切りに、東京港区三田、京都府船井郡、岐阜県大垣市、北海道十勝、山梨県甲府市、続いて七窪思恩園など8カ所。海外に目を移すと、1913(大正2)年、朝鮮光州、満州済南、瀋陽。米国カルフォルニア州モンタナ、樺太(カラフト)豊原町(ユジノサハリンスク)、台湾台中市を合わせて13カ所になったが、これらの多くはその後、独立または廃止された。

 

 本院は1908(明治41)年に財団法人化。3年後、岐阜市外加納町(加納鉄砲町)に移転。大正時代をまたぎ42(昭和17)年、岐阜市長良天神に移転し、日本児童育成園と改称した。

 

 このような活動の中、1901(明治34)年頃の本院はどのような運営をされていたのか。『岐阜市史』(1981年刊)の「キリスト教の社会事業」の項に記述がある。14歳以下の孤児、貧児63名収容。経費は賛助員制度を設け広く寄付を募りまかなったが、その分布は全国39都道府県、外国にまで及んでいた。

 

 なぜ、これほどまでしての分院、支部活動なのか。それはキリスト教徒としての使命感だけではなく、自身の幼い時に起きた父母との別れがあったからだ。五十嵐は可能な限り子ども自身が生まれ育った近くで、不安なく生活できることが理想と考えたからと言われている。1カ所に遠くからも呼び寄せる方式とは正反対の方式を取った。現在に通じる先駆的な児童養護だったのではなかったか。

 

 

 現在、社会福祉法人日本児童育成園(岐阜市長倉森町)には資料室がある。50(昭和25)年の『配給関係書類』には、救援物資「ララ物資」の受領証(品名明細付)が数多く残されている。また『昭和十年予算整理簿』には七窪思恩園との交流を示す記載があった。

 

 ところで最近、五十嵐喜廣に関する資料、文献、書簡などに十分裏打ちされた学位論文が発表された。佐藤昭洋氏(30)の『五十嵐喜廣の日本育児院における施設形成と歴史的役割に関する研究』というA4判・152ページの労作である。執筆者に動機を尋ねた。

 

 「大学(北海道・名寄市立大学)で社会福祉を学ぶ中、郷里が同じ恩師から、郷土の歴史に取り組んでみてはとの提言があり、帰省した時に酒田市立図書館で偶然手にしたのが、『社会事業の先駆者―五十嵐喜廣』でした。山形から世界にかけて活躍する人がいた。衝撃でした」。

 

 この研究にも協力した長縄良樹園長(71)は、身を乗り出すようにして語った。「48年間、ここで勤めさせてもらっていますが、五十嵐喜廣先生の思い、願いを今、改めてかみしめ、職員と共に実践しています。心は『記念誌』に書いた通りです。私自身は、110年の3分の1の歴史に参加を許されましたが、最初から変わらない願いは、子どもが育成園に来て良かった! と喜んで巣立ってほしいです。2番目、3番目の親父になれればなあーー」。

 

長縄良樹・7代園長

 

 この施設で育ち高校、大学と進み保育士になった女性職員(37)は、12年間、住み込みで働いた。「ここでお世話になりましたので、ささやかな恩返しができれば」と、新しくできた児童棟を園長と一緒に案内してくれた。彼女は園に帰って来る子どもたちに、優しい笑顔で声を掛けながら歩く。

 

 近年刊行された『岐阜県教育史』(県教育委員会)は、濃飛育児院の詳細を記述し、日本児童育児園と思恩会の姉妹法人の原点を今に伝えている。

 

【髙野進】

 

 

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