社会福祉法人風土記<52> 天竜厚生会 上 無から有を引き出す闘いへ

2019年0919 福祉新聞編集部
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天竜荘へ講演に来た賀川豊彦(左から5人目)と山村三郎(最前列右端)=1946年

 「あばれ川」といわれた天竜川。長野県諏訪湖に源を発する。伊那谷や天竜美林の北遠を蛇行し、赤石山脈(南アルプス)南端の静岡県浜松市天竜区で最後のヘアピンカーブを描く。山峡を抜け、遠江平野(浜松平野)を流れて、市東部で太平洋(遠州灘)へと注ぐ。

 

 最後の難所にそそり立つ段丘崖の右岸を通称・百々山という。国立病院機構・天竜病院、県立天竜特別支援学校と並び、天竜厚生会(山本たつ子理事長)の施設群が広がっている。面積約23万平方メートル。全国屈指の規模をもつ社会福祉法人だ。

 

 百々山のアカマツ林には戦前、二つの結核療養所があった。天竜病院の前身である傷痍軍人用の国立施設「天竜荘」、そして民間の日本医療団傘下の「浜名荘」(戦後、天竜荘に糾合)。計約1000床。

 

 いま結核は治る病だが、1940~55年、日本人の死因のトップだった。住民は息を殺して付近を通ったという。

 

 「全治ノ域ニ到達セリ」。九死に一生を得たものの、住むに家なく食うに職なき〝白衣の勇士〟たちが数を増す。戦後の荒廃下、国も頼りにならなかった。

 

コロニー目指して

 

 「自らの力で後保護(アフターケア)施設を」。各地の療養所で自治組織ができていく。天竜荘では山村三郎、大石勝馬、沢口政次ら〝8人衆〟。1946(昭和21)年10月、結核回復者コロニー準備会を立ち上げた――今や全員鬼籍に入った第1世代である。

 

 日本再興を、と全国を駆け回った社会事業家、賀川豊彦(1888~1960)が、天竜荘の講堂で講演したのは準備会発足の翌月だ。700人もの聴衆が山へ登ってきた。「頼んだら来てくれた。気さくな人で、『本人が努力し、神が必要とされるなら与えられるよ』と励ましてもらった」。後年、事務局長として天竜厚生会を担う山村は、こう語っている。

 

 山の上はほとんど国と県の土地だが、8人は徒手空拳。「無から有を引き出そうとする苦しい建設への闘い」(厚生省『国立療養所史(結核編)』1976年)だった。

 

 メンバーを支えたのは、多くの患者仲間と初代荘長の故・宍戸芳男医師である。

 

宍戸芳男・初代理事長(天竜荘長)

 

 まず8人は荘の大気療法作業員に。排菌しなくなり、病棟そばの外気小屋ですごす患者の軽作業を指導した。あわせて無償で借りた荘の管理(国有)地を開拓。〝時間外労働〟で牛やブタを飼い、煮炊きに使う炭とともに補食用の牛乳や野菜を患者へ売った。あわせてメンバーは国有地入植事業に応募、農地を入手していく。

 

 外気小屋や病棟外廊下の廃材をもらい、住宅や最初の施設「厚生寮」を開拓地に建設。1950(昭和25)年春、山村一家ら7世帯18人が入居した。コロニー準備会に代わる財団法人をつくり、天竜荘の医学管理下にあるアフターケア施設として静岡県より認可されたのは、その年の秋である(初代理事長=宍戸芳男荘長。年末に内山竹蔵・元二俣町長へ交代)。天竜厚生会の船出だ。

 

 2年後、社会福祉法人へ衣替え。天竜荘へのコメの販売権をもらうなどし、自己資金をプール、草創期の基礎を固めていった。

 

障害者援護へ

 

 ラジオの組み立て・修理、洋裁、孔版印刷、靴下製造……生活保護法にもとづき職業補導をする更生施設「厚生寮」(定員36人)はちょっとした〝町工場〟風に。技術を身につけ、約80人が社会復帰を果たした。

 

 1950年代に入ると、特効薬ストレプトマイシンのおかげで結核も沈静化していく。一方、「片隅でいいから」と転がり込む困窮者は増えるばかり。定員無視で世話した。「障害を持つ子を残して死ねない。預かってくれないか」と訴える親も少なくなかった。

 

 このため経済白書が『もはや戦後ではない』と宣言した56(昭和31)年、厚生寮の定員を50人に、翌年は100人へと増やしている。障害者は3割近くに達した。

 

 反対の旗を振る一部の住民を説き、1962(昭和37)年、障害者も受け入れる救護施設「清風寮」(生活保護法)を新設。結核後保護から障害者支援へとかじを切っている。

 

 折しも県や地元の要望を受け、県内2番目の「百々山寮」(1964年完成)、県東部で初の「白糸寮」(富士宮市、1966年完成)の二つの特別養護老人ホームの工事が同時進行中だった。「国の補助も満足にない。ここまでの20年は本当に苦しかった」。山村はそう回想している。=敬称略 

 

【横田一】

 

 

 

 

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