社会福祉法人風土記<54> 日本心身障害児協会 島田療育センター 上

2019年1107 福祉新聞編集部
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島田伊三郎氏(左)、小林提樹・初代園長

この子は私である。
あの子も私である。
どんなに障害が重くとも
みんなその福祉を守って
あげなければと
深く心に誓う。

 

 わが国最初の重症心身障害児施設、社会福祉法人日本心身障害児協会島田療育センター(東京都多摩市、河幹夫理事長、木実谷哲史院長)の玄関正面に飾られた小児科医で初代園長の小林提樹(1908~1993)のレリーフに刻まれた座右の銘である。

 

 小林は長野市稲里の出身。1935(昭和10)年慶應義塾大医学部卒。学生時代に肋膜炎で1年休学、復学後にYMCAで子どもたちに接したことで小児科医を志し、さらに昭和14年暮れ、長男を生後36日目で亡くしたことで、障害児のために縁の下の力持ちになろうと決心した。しかし、1941年召集され、軍医として中国、台湾などを巡り、終戦の翌年に帰還した。多くの仲間が戦死する中、生かされた命を子どもたちのため、障害児のためにささげようとの思いを固め、日本赤十字社本部産院小児科部長に就任した。

 

 戦後の混乱期、東京では捨て子が多く、日赤産院は捨て子の中でも障害のある子を積極的に受け入れた。ミルクの配給はあったが、食糧難はひどく、小林自ら買い出しに闇市に出かけたほど。障害のある捨て子は小児科病棟で育てていた。1948(昭和23)年には児童福祉法による乳児院が日赤にも開設されたものの、満1歳まで(後に2年に延長)の年齢制限があった。

 

 さらに、法は「健康な乳児を収容して介護する所」と規定されており、健康保険では、治癒の見込みのない病気や障害は入院治療に値しないとされ、障害のある乳幼児はどこにも受け入れられず、小林がいる日赤小児科だけが入院させていた。しかし、入院している障害児が増えるに従って、「入院に適するか」と健康保険基準局から詰問された。全員退院させることになった。

 

 在宅で養育することが無理にもかかわらず、退院させることに踏み切った小林は、自伝「愛はすべてをおおう」の中で、「障害児殺しや一家心中したとしても、当局のみなさんに責任を取ってもらいます」と激しい怒りをぶつけたと記す。

 

 小林が扱った障害児は、当時は癲癇、精薄などと呼ばれ、さらに運動障害、視覚障害、聴覚障害などを重複して持っている子が数多くいた。日赤に移ってからも慶應義塾大医学部の講師を引き受け、週2回障害児の診察を行っていた。小林の親切丁寧な診察は評判で、患者家族が詰めかけ、予約は2、3か月待ちだった。

 

 多忙を極める中、小林は医療だけでは重複する障害を持つ子どもたちを救えない、そうした子どもたちを引き取る施設が必要と感じ始めていた。

 

 昭和25年4月、慶應義塾大学小児科の小林のもとに、癲癇発作の診察に島田良夫ちゃん(当時1歳2カ月。10歳の時、不慮の事故で死去)が現れた。治療はなかなかうまくいかず、「動く重症児」に相当する行動異常を伴うようになった。家庭では面倒を見切れない状態だが、受け入れてくれる病院や施設がない。

 

島田良夫君の胸像

 

 相談に訪れた居酒屋とパチンコ業を営む両親の伊三郎・与志夫妻は、良夫君のこれからについて、別荘のような場所で看護するつもりだという。これに対し小林は「お宅の坊やのような障害を持ったお子さんはたくさんいます。そんな人たちが、ともに悩みを分かち合えるような施設の設立を考えてみてはどうでしょうか」と提案した(島田療育センター50年史)。

 

 その5年後、島田夫妻は、小林の提案に応じ、「施設用地を寄付したい」と協力を申し出てきた。千葉県内で見つけた土地には島田夫妻が手付けまで払った。ところが、この土地が、障害児の施設建設地と分かると住民が反対運動を起こし、手付け金は返され、断念せざるを得なくなった。

 

 それでも、夫妻と小林らはあきらめずに土地探しに奔走した。その翌年の1957(昭和32)年、まだ開発前の多摩丘陵の一角、多摩村落合中沢に約1万坪(3万4327平方メートル)の土地が見つかった。京王線の聖跡桜ヶ丘駅から徒歩で1時間半、バスは朝夕だけという不便なところだった。

 

 土地の購入に力を貸してくれたのは、日赤小児科に通院する知的障害の子どものお母さんだった。知り合いから地主を紹介してもらうと、「お金は出せないけれど地主にお願いする」と、小林らとともに地主を一軒一軒訪ね歩いてくれ、小林が丁寧に障害児施設の必要性を説明した結果、土地が買えた上、理解が得られた。  

 

 

【若林平太】

 

 

 

 

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