社会福祉法人風土記<54> 日本心身障害児協会 島田療育センター 下

2019年1120 福祉新聞編集部
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左から、河理事長、木実谷院長、藤永前院長、山川前理事長

 「すべての児童が健やかに生まれ、かつ育てられることは児童福祉の基本理念であるが、(略)重症心身障害児をこれら児童の療育の特殊性を考慮して整備され運営される施設に入所させ、適切な療育を行う」

 

 1963(昭和38)年7月、厚生省は重症心身障害児療育実施要綱を次官名で通達した。67年には児童福祉法を一部改正し、18歳を超える者も入所できる特例が設けられたが、国が正式に重症心身障害児の言葉を使い、島田療育園など先行する民間の動きを認め、協力の意思表示をした画期的通達だった。

 

 50床から始まった島田療育園は63年、第2期工事が終了して101床に。1年後には157床に増えた。時代の要請に応じた拡大だった。しかし、増える入園希望者に対し、看護婦、看護助手ら職員の人手不足は深刻化していた。

 

 64年のことだった。秋田県中央児童相談所から島田療育園に悲鳴にも似た要請があった。重い障害を持った男の子の母親が亡くなり、父親が助けを求めてきた。その子を含め重症児が18人もいるので受け入れてほしいという。

 

 これに対し、小林提樹園長は「ベッドはあるけれど、人手不足で引き受けかねる。看護助手1人をあっせんしてくれるなら2、3人は……」と回答せざるを得なかった。

 

 これに応じて秋田では早速、看護婦、看護助手の求人が行われ、地元紙の秋田魁新報社もキャンペーンを展開。多くの希望者が集まり、3人の看護婦と12人の看護助手が翌年集団就職した。母を亡くした重症児も入園。その後十数年も、秋田県からの集団就職は続き、「秋田おばこの集団就職の奇跡」と語り継がれた。

 

 島田療育園は看護職員らの士気は高かったが、人手不足は深刻化し、職員の間に腰痛が多発した。1970年代に入るとストライキを含む労働争議が起き、小林と職員の間にできた「福祉と労働」に対する認識の溝が大きくなった。ストライキを「反福祉」「暴力」と断じる小林は遂に、「疲れた」「負けるが勝ち」といって、74年4月、園長を辞職した。

 

 以降の島田療育園は、7年間に5人の園長が次々と交代する不安定な事態となった。ストライキ時には障害児の親が施設に詰め、入浴、食事の介助やおむつの洗濯などを手伝った。また、1975年には、島田夫妻の友人らが「善意の灯りを絶やすな」と、「島田療育園を守る会」を発足させ、物心両面で園を支え続けた。

 

 「存亡が危ぶまれる時もあったが、障害児たちの命を守るため必死に頑張ってきた。看護職員のみなさんの間に腰痛などが増え、犠牲的精神で働いていることは理解していました。運営費が足りないのですぐには賃上げや待遇改善はできなかった。時間をかけて少しずつは改善をし、職員のみなさんに理解してもらった」(山川常雄前理事長)。

 

 施設に批判的な考え方や在宅障害児への取り組みを求める声も大きくなった。82(昭和57)年、女医の藤永数江園長が就任、職員の確保を積極的に行い、徐々に入所者を増やし、増収につなげた。「療育の向上」で運営の安定を目指そうと、リハビリテーション分野の専門職を積極的に採用、施設の改良・増築も行った。さらに、地域の中核としての役割を果たす自覚と覚悟を持って名称を「島田療育センター」に改称した。これに伴い園長は院長に。

 

 経営を安定させた藤永院長の後任として97(平成9)年、木実谷哲史院長が就任。翌年、センターの理念を「利用者のニーズに応え 質の高い療育を目指す」とし、また(1)個性を尊重し、充実した生活を送ることができるように努めます(2)人間としての尊厳を重視した質の高い医療、看護、生活支援を行います――など5項目の療育の指針を制定、目指すべき方向の共有化を図った。

 

 国も2005(平成17)年に障害者自立支援法(2012年に障害者総合支援法に改定)を制定し、障害者・障害児が必要な障害福祉サービスを受けられる制度にした。

 

 島田療育センターも入所(233床)、短期入所・緊急一時保護(10床)、通所(デイケアセンター)、外来診療(小児科、整形外科など)、訪問事業(訪問診療・訪問看護・訪問リハビリテーション)などサービスの幅を広げた。また、「子育てに不安がある」など発達に関する相談も受け付け、地域のセンターとして存在感を高めた。

 

 さまざまな改革が少しずつ成果を表してきた11年5月、島田療育センターは創立50年周年を迎えた。「50周年史」の中で、全国重症心身障害児(者)を守る会の北浦雅子会長(現名誉会長)は「多くの方々のご支援と運動の積み重ねによって、医療、福祉、教育が三位一体となって重症児者のいのちが守られ、可能性を伸ばす豊かな療育が行われていることに親として心から感謝しております」と記している。

 

 新しい時代にあったセンターへさまざまな改革を実施してきた木実谷院長は「法の見直しによっては、同じ施設でも小児医療型施設や療養介護事業所に分けられるかも知れない。環境の変化に対応しなければならないが、センターは福祉のニーズには応え続けます」と言う。

 

 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設で起きた入所者ら殺傷事件の犯人が元施設の職員だったことには、「事件以来、緊張感を持って対応している。どんな考えを持とうが自由ですが、障害者を否定することは絶対許せません」ときっぱり。

 

 センターのこれからについて、河幹夫理事長は「施設の建て替えの時期になって来ている。防災の面からも地域にとって頼りがいのあるセンターしなければ」と次の50年を見据える。

 

 

【若林平太】

 

 

 

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