社会福祉法人風土記<55> 全国重症心身障害児(者)を守る会 下

2019年1218 福祉新聞編集部
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重症心身障害児者のための通所施設「あけぼの学園」では、近隣の小学生との交流が行われている

 1966(昭和41)年、守る会は社会福祉法人の認可を受けた。重症心身障害児対策は、政府の重点施策になった。
 全国10カ所の国立療養所及び整肢療護園(東京都板橋区)への重症児病棟設置。翌年には重症心身障害児対策5カ年計画(入院が必要な重症児の全員入院)が決まった。

 

 3年後、東京都世田谷区三宿に守る会の重症心身障害児療育相談センターが完成した。センターは、全国の親たちの「心のよりどころ」となるとともに、他に先駆けて親たちが自主的に母子通園を始め、通所施設につながった。 

 

多くの善意によって1969年に完成した重症心身障害児療育相談センター

 

 本部事務所も港区から移り、運営体制も整った。また、親亡き後の障害者に終身一定額の年金を支給する「扶養保険制度」が創設された。

 

 施設が増え、「緊急一時保護制度」などで支援が充実する一方で、入所している重症心身障害児者(以下、重症児者)の加齢が進み、人手不足と相まって看護・介護職員の腰痛問題が深刻化した際には、守る会は「施設の職員の人権が、子どもと同じように守られなければ、この子たちの真の福祉はあり得ない」と、国に職員の待遇改善を訴えた。

 

 妻の雅子理事と二人三脚で守る会を引っ張ってきた北浦貞夫会長が1978(昭和53)年死去、雅子理事が会長(現・名誉理事長)に就任。

 

 この頃、重症児者の親や施設職員の一部に権利をめぐり、対立が目立つようになったため、争いを戒める目的で、守る会の三原則を定め、次いで親の憲章を決めた。

 

 会の三原則は「決して争ってはいけない」、「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」、「最も弱いものをひとりももれなく守る」とした。

 

 「守る会」がこの三原則を決めたのは、「どんなに障害が重くても真剣に生きているこの命を守ってください」と社会に訴えてきた経緯からだ。また、「社会の一番弱いものを切り捨てることは、その次に弱いものが切り捨てられることになり、社会の幸せにつながらない」との思いも併せて問い掛けるためだった。

 

 重症児者の受け入れ施設の設置推進から、在宅施策の充実、児者一貫の療育体制の維持継続、医療的ケアの充実などを目指して運動してきた守る会は、東京都など自治体から施設の運営を委託されるケースも増え、組織が拡大。会員数も2019年1月現在1万600人、都立東大和療育センターなど長・短期の入所施設と病院の3施設(定員460人)を経営。通所施設は10カ所(定員225人)に及んでいる。

 

 重症児者を守ろうとする運動は、社会に認められ、浸透していたのではなかったか。

 

 2016(平成28)年7月26日、神奈川県相模原市にある県立障害者支援施設「津久井やまゆり園」で障害者19人が元職員に殺害された事件は衝撃的だった。同時に、「入所者は生きている価値がない」「障害者はいなくなればいい」などとする犯行動機に、言い知れぬ恐怖感を覚えた人は少なくないはずだ。

 

 事件を受けての記者会見で、神奈川県重症心身障害児(者)を守る会(当時の伊藤光子会長)は「本当にいたたまれない思いでいっぱいです」としながら、「安全は大事だけれど、障害児と健常者が共生する社会への取り組みは、絶対に後戻りしないでほしい」(朝日新聞7月30日付)と語った。

 

 閑静な住宅地にある「守る会」本部内の通所施設「あけぼの学園」では、「共生社会はふれあいから」と、重症児者と地域の小学生との交流が続いている。交流した小学生からは「人と人が支え合って生活していることを実感した」などの感想が寄せられている。

 

 いつものように送迎バスで自宅へ帰る利用者を送り出した後、山形一郎園長が語ってくれた。

 

山形一郎・あけぼの学園長

 

 「重症児者は、純粋無垢で、精いっぱい生きていることが、切々と伝わってきます。目や口の動き、手のしぐさなど、身体全体いたるところからさまざまな感情を表し、伝えようとしています。その伝達をキャッチできるかは、常日頃からの支援、様子観察が重要です。分かるようになれば、重症児者の介助に喜びを実感できます。介助する側が一生懸命になってやっているか問われているのです。また、生き方を教えてくれる存在です。『重症児者は生きていても価値がない』という考えに至ったのは介助する相手に誠心誠意向き合わなかったので喜びを感じられなかったのでしょう。重症児者は精いっぱい生きているのです」。

 

 ヒサ坊・尚さんは2018(平成30)年1月、72歳で死去。同年4月の会報「両親の集い」720号は「児者一貫制度の恒久化を見届け、静かにその生涯を閉じられた」と記した。

 

【若林平太】

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