社会福祉法人風土記<56> 滝乃川学園 中 資金難で教育と経営を分離

2020年0115 福祉新聞編集部
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旧・財団法人日本精神薄弱児愛護協会創立総会の記念写真(本館前にて) =1934(昭和9)年

 石井筆子は1880(明治13)年から2年間、ヨーロッパ(フランス、オランダ、デンマークなど)に留学。そして生涯の盟友の津田梅子(1864~1929)とは、「華族女学校(現・学習院女子中高等科)で教師として肩を並べた。フランス語は筆子が担任で大正皇后も教え子の一人。英語は津田梅子だった。二人は98(明治31)年、日本女性代表として米国で開催された「万国婦人倶楽部大会」に出席し帰国したが、筆子は亮一と結婚するために華族女学校を退職し、校長をしていたミッションスクール静修女学校は、津田梅子に譲ったのである。

 

 その梅子は、女子英学塾を開塾。それが現在の津田塾大学の始まりであり、日本の近代女子教育の先駆者の一人と言われるゆえんである。筆子はこれら豊かな人脈を駆使し、バザーなどを積極的に催し、学園の運営資金を捻出することに尽力した。しかし、初代学園長であった亮一が1937(昭和12)年に逝去すると、推されて2代学園長に就任し、学園経営の難局を乗り越えつつあったが、44(昭和19)年に逝去。しかし、生涯に多くの文書、著作を残し、日本の知的障害者教育、福祉の道を指し示したのであった。

 

 その筆子が31(昭和6)年、学園からの〝お願い〟として送ったと思われる文が残る。

 

 「私共の特に申上げたいことは、この方面の教育は覿面に効果の期待できるものではないといふことでございます。(略)その一人々々をどう導いてよいかと途方に暮れてしまうことがあります。教えても教えても進まない。私共は信仰の力なくしてこの努力を果すことは出来ません。この礼拝堂は、日本聖公会のマキム監督より、全くこの目的のために建てられたものです。私共は及ばずながらもできる限りの努力を致して居るのでございます」。解説では、署名はないが、これは筆子による文章とみて間違いなく、祈りとともに困難な事業に立ち向かう学園の職員一同の思いを語って余すところがない、としている。

 

本館と同時期の1928(昭和3)年に竣工した聖三一礼拝堂

 

 ところで、1920(大正9)年3月、学園男子寮から出火、寮などが全焼、園生6人が焼死する事件が起きた。火災の後、学園は同年9月、個人経営から財団法人化による経営にかじを切った。資金難の学園を救うために石井亮一・筆子夫妻には教育に当たってもらい、経営自体は理事会が担うことになった。その初代理事長には、亮一の旧制佐賀中学の先輩で海軍軍医総監になる中尾太一郎。2代は立教大学の同級生で立教女学校校長の小林彦五郎と続くが、いずれも短期であった。そして3代の理事長職には日本近代資本主義の父と言われ、生涯に約500社の企業を設立した渋沢栄一が就く。同時に300を超す社会貢献活動に取り組んだ社会事業家でもある。この職を31(昭和6)年、亡くなるまで続けたのである。その知名度と何よりも行動力によって財政基盤の整備に努めた。その後には、三菱、三井など財閥系が資金援助を申し出たことが、滝乃川学園百二十年史年表からうかがうことができる。

 

 そして、34年(昭和9)年10月、この地で石井亮一の呼び掛けで滝乃川学園をはじめとした8施設によって産声を上げた旧・日本精神薄弱児愛護協会(現・日本知的障害者福祉協会)は、その加入施設が6440に達しましたと、米川覚館長は感慨深げに語った。

 

米川覚館長

 

 40(昭和15)年に学園は50周年を迎え記念に『石井亮一全集』が刊行される。翌年、太平洋戦争に突入する。44(昭和19)年、筆子が亡くなる年あたりから、財閥系財団からの助成が減少し始め、園生の園費によって経営することになり、そんな中で皇室関係の支えがあったことが注目される。

 

 ここで太平洋戦争下の園生数の推移はどうだったのか。在園者は谷保(現・矢川)に移転後、増加が続き、戦争勃発時には最も多く100人ほどであったが、終戦時の45(昭和20)年以降になると70人と少なくなった。戦争による経済状況の悪化、国民の窮乏などにより、これまでの各方面からの補助金、交付金なども減額され、さらに寄付金も減少の一途をたどるのであった。

 

 この影響はもろに園生に表われた。くにたち郷土文化館刊行の『苦難の日々も』―国立の戦中、戦後をふりかえる――(1995年刊)には学園では栄養不足により亡くなる子どもが多く出たとある。学園が刊行した『百二十年史』には、ひもじさに苦しんでいたのは園生だけではない。空襲下での防空壕への園生たちの避難誘導、徒労に終わることも多い買い出し(例えば野菜などを近隣の農家に)、夜尿などの多い子の世話など、昼夜を分かたぬ激務も重なり、職員たちも疲れ飢えていたとある。終戦直前、学園男子寮が陸軍の警備隊に接収されたが、45(昭和20)年8月15日終戦となった。日本人だけで310万人が戦死、戦病死。海外でも数多くの民間人を戦禍に巻き込んだ。そして、この時から海外からの復員、民間人の引き揚げ者が約410万を数えたのである。学園の食料不足、物資不足は続くのであった。

 

【高野進】

 

 

 

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