社会福祉法人風土記<57> 聖音会 上 身寄りのない子も引き取る

2020年0205 福祉新聞編集部
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晩年の佐竹音次郎と妻・くま

 「鎌倉幕府」が開かれ、鶴岡八幡宮など数多くの神社仏閣に加え、リゾート地として年間約2000万人の観光客が訪れる神奈川県鎌倉市。JR鎌倉駅から歩いて10分足らずの場所に社会福祉法人「聖音会」(小原勉理事長)がある。本部のある鎌倉市佐助に児童養護施設「鎌倉児童ホーム」と、知的障害者支援施設「綾瀬ホーム」(神奈川県綾瀬市吉岡)や「さがみ野ホーム」(綾瀬市深谷中)の3施設を運営している。

 

 聖音会は1952(昭和27)年5月に、財団法人から社会福祉法人として認可されるが、そのルーツは1896(明治29)年7月に高知県出身の佐竹音次郎(1864―1940)が、現在の鎌倉市腰越で開業した「腰越医院」に「小児保育院」を併設したことに始まる。

 

 音次郎は幕末の1864(元治1)年5月に、土佐国幡多郡下田村竹島(現高知県四万十市)で、父宮村源左衛門、母左雄の四男として生まれた。7歳の時に親戚の染物業、佐竹友七の養子になるが、養父母の離婚で13歳の時に生家に戻ることになった。佐竹姓はそのままだった。

 

 音次郎は18歳の時に、村立小学校教員の助手になったのを契機に、高知県小学校初等、中等、高等科教員検定試験に合格した。23歳の時に上京、郷土出身者のつてで東京府巣鴨尋常小学校の校長に就任する。尋常小学校修了までを義務教育とする「小学校令」が公布(1886年)されたことで、小学校をたくさん造らなければならないという時代的背景があってのことだった。

 

 そんな音次郎が「医は仁術、職業として最も意義を持つものだ」と、医者になることを志したのは90(明治23)年、27歳の時で、医学専門学校「済生学舎」(現東京都文京区)に入学する。明治の初期、医者(西洋医)になるには、大学の医学部を卒業するほか、「医術開業試験」を直接受験する方法があり、済生学舎はその試験を受験するための、いわば予備校的な医学校で、野口英世も学んだ。

 

 医師免許を取得した音次郎は山梨県立病院勤務を経て、94(明治27)年7月、内科と小児科の「腰越医院」を開業する。結核の転地療養で滞在している、資産家の婦人や子どもたちを患者とする一方、漁村だった腰越の貧しい人たちの診療にも当たった。病弱な子どもたちは生活環境も劣悪で、病気を繰り返すことから、音次郎が引き取り、長期に世話をすることもあった。「あの医院は身寄りのない子どもの面倒を見てくれる」という評判も立った。音次郎が医院に「小児保育院」を併設したのは、同郷の沖本くま(当時19歳)と結婚した翌年の96(明治29)年7月のことで、音次郎が33歳の時だった。

 

 保育院は「孤児」という言葉を嫌った音次郎の特別な考え方から名付けられた。どのような子どもであろうと、いったん引き受けたからには、我が子同然であり、孤児ではないとする考え方からだった。ちなみに、「保育」という言葉を日本で最初に使ったのは音次郎だと言われている。

 

 さて、音次郎とくま夫妻には1男4女の子どもがいた。長女里、次女伸、三女花の3人は母くまとともに、病弱だった音次郎が事業を進める上で、なくてはならない存在になっていく。さらに付け加えれば佐竹姓になる夫や息子、孫、ひ孫と4世代にわたって、法人の運営に関わっていくことになる。

 

 その一方で、長男献太郎は5歳の時に、四女愛子は4歳の時に夭逝する。特に愛子は院内でまん延した伝染病が原因で、入園児とともに亡くなってしまう。音次郎は「小さい医院の中で、大勢の子どもたちを育てようとすることが、間違いだった」と考え、医者をやめ、保育の事業に専念する契機になった。1906(明治39)年5月、鎌倉市佐助の現在地に「鎌倉小児保育園」と改称する新園舎を移転、新築する。

 

【澤晴夫】

 

 

 

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