社会福祉法人風土記<57> 聖音会 中 慈善書画会で資金作り

2020年0213 福祉新聞編集部
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設立直後の鎌倉保育園大連分園

 神奈川県鎌倉市に本部を置く社会福祉法人「聖音会」(小原勉理事長)。そのルーツは高知県出身の佐竹音次郎(1864―1940)が、鎌倉市腰越に開院した「腰越医院」に病弱な子らを受け入れた「小児保育院」を併設したことに始まる。

 

 保育院の運営は音次郎の医業収入によって賄われていたが、医者と子どもの療養を並行するという無理がたたって、一時は重態にまでなる。生活不安の中で、音次郎が選んだのはキリスト教の信仰と、伊藤博文など政治家や書家、画家といった著名人の揮毫きごうを「慈善書画会」として販売することだった。この収益で崩壊寸前だった保育院の運営と、聖音会の本部がある現在地の鎌倉市佐助に、名称を「小児保育園」と変更した施設を移転建設することができた。

 

 さらに音次郎は海外支部を次々に開設する。1912(大正元)年10月、書画会の開催で、満州(現中国)に渡ったのがきっかけだった。書画会を成功させた音次郎は日露戦争の戦跡だった旅順を訪れた。以前から鎌倉より広い場所に、年長男子が自活できるまでの鍛錬教育の場をつくりたいと考えていた。移転、閉鎖したものも含めると大正初期から昭和にかけて旅順、京城(現韓国ソウル市)、台北、大連、北京に、それぞれ支部や分園を開設。第2次世界大戦の終戦まで各支部での事業が続けられた。

 

 海外支部も含めて順調かに見えた鎌倉保育園を突然襲った悲劇は23(大正12)年9月1日の関東大震災だった。園舎は全壊。7歳と8歳の男児2人を失い、重軽傷者数人を出した。70人もの大家族を抱える音次郎にとって悲しんでいる暇はなかった。天幕バラックの仮園舎を建て、避難してきた地域の人たちへの宿舎、物資の提供にも追われた。震災復興国庫補助金や復興資金調達のための慈善書画会開催などが奏効。翌年の12月に新園舎が完成する。

 

大震災で倒壊した鎌倉保育園園舎

 

 鎌倉保育園とともに海外支部開設にも尽力した音次郎が、波乱の生涯を閉じたのは40(昭和15)年8月だった。保育園創立45周年記念感謝会が開かれて間もなくのことだった。享年77歳。社会福祉事業が「慈善事業」と言われた草創期から社会事業に発展する形成期で、施設を建設する資金から、多くの子どもたちを食べさせる日ごとの糧までを、自己の経営努力によって賄った。預かった子どもたちは5500人を超えた。児童だけでなく、高齢者や障害者の援助も実践した。入所児童が成長して社会に出てからも、疾病、精神的、身体的障害などで戻ってくる者をも、里帰りのような形で受け入れた。「ゆりかごから墓場まで」という、現代の社会福祉思想を先取りした先駆的な事業だった。

 

 45(昭和20)年8月の終戦。11月から翌年12月にかけ、事業が閉鎖された海外支部のうち、台北、大連支部から身寄りのない児童約65人が職員に引率されて鎌倉に引き揚げてきた。要保護児童が激増した鎌倉保育園は48年の児童福祉法施行で養護施設として認可される。さらに52年には社会福祉事業法の施行で、社会福祉法人に変更認可される。初代理事長は音次郎の次女伸と結婚、佐竹姓になった昇が就任することになった。

 

 さて、終戦後の混乱期は要保護児童の激増だけではなく、社会の疲弊により行き場を失った要援護者も増加した。これまで保育園内にあった名もない成人保護部門を「生活保護部」として発足することになった。52年の改正生活保護法の施行で、生活保護部は救護施設として認可される。しかし、児童との複合施設では十分な機能を発揮することができないため、新しい施設の建設用地として白羽の矢が立ったのが、厚木飛行場(現海上自衛隊厚木航空基地)に近い神奈川県高座郡綾瀬町(現綾瀬市)寺尾だった。移転用地約2500平方メートルを購入。61(昭和36)年10月に、鉄筋コンクリート造り2階建ての新施設を造った。

 

【澤晴夫】

 

 

 

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