社会福祉法人風土記<59> 蓬愛会 上 極貧の母子世帯…若き日の涙

2020年0403 福祉新聞編集部
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左から石川渉蓬愛会創立者、那須信受南那須社会事業協会初代理事長

 栃木県宇都宮市、さくら市、芳賀町を拠点に幅広く高齢者福祉事業等を展開する社会福祉法人「蓬愛会」(大山知子理事長)には、「而今」と名の付く施設が多い。これは法人創立者・石川渉(1926~2010)の哲学・願いである「しこうして今を生きる・今を楽しく生きる施設=而今」からきており「人は皆ここで愛に逢えるよという法人名=蓬愛」とともに石川が曹洞宗の開祖・道元禅師の正法眼蔵に共感しての命名だ。

 

 法人を語る前に、「栃木県社会福祉史上において時代を先取りしたパイオニアであり、生活保護行政の神様、県社会福祉を精力的に牽引してきた人」(法人30周年記念誌)とする石川渉の生涯を概観する。

 

 石川は那須郡烏山町(現那須烏山市)の生まれ。明治学院専門学校(現明治学院大学)在学中に学徒出陣で召集されたが、訓練中に終戦を迎え、復学。戦後の1947(昭和22)年春に卒業し、栃木県庁に入職、生まれ故郷の南那須地方事務所烏山出張所に勤務、21歳だった。当時は戦後の混乱期で、特に急増する母子世帯は衣・食・住・職ともに総合的に援助を必要とする状況に置かれていた。町の職員らと困窮する母子世帯への訪問をする中、寒風が入り込むバラック同然の住居で生活する親子を見て、石川は「涙を禁ずることが出来なかった」。石川が福祉に目覚める原点となった。

 

 時はやや戻り第2次世界大戦中のこと、各町村では銃後奉公会などが軍人遺家族援護に力を入れていた。烏山町では方面委員常務の那須信受(1891~1972)、同町収入役(1947年から52年まで町長)の沢村幹(1892~1966)、同町社会課長・佐藤干城(1905~2004)らだ。ミシンを持ち寄ったり、自費で購入したりして、那須が経営する烏山保育所を利用して軍人遺家族20人ほどに、横須賀海軍工廠発注の夏シャツ単袴縫製の仕事を提供し終戦まで続いた。

 

 1948(昭和23)年に民生委員法が制定され方面委員は民生委員と名称を変え、南那須11町村からなる南那須民生委員連合会(那須信受会長)が結成される。石川は南那須地方事務所烏山出張所勤務だったため、母子世帯支援のため、佐藤干城らとともに南那須社会事業協会設立に向けて奔走、同年12月に南那須社会事業協会が発足した。「協会設立時の南那須地域の状況は、生活保護の保護率が高く、母子世帯の占める比率も高いうえ住宅状況は極めて貧困。さらに就業の場が少なく、したがって収入も少ないので、母子寮に授産施設を併設するなど住生活とともに安定した就業対策が必要だった」(烏山母子寮・授産場 創立40周年記念誌)。

 

 戦後になっても、支援を必要とする母子世帯の置かれた状況は変わらずに、むしろ困難が増すありさまで、戦前と同様に那須たちが支援を続けたのである。協会は2年後の50年に烏山母子寮と烏山授産場を開設し、さらに2年後には社会福祉法人の認可を受ける。那須信受が協会の初代会長に就き、法人化後には初代理事長となった。

 

烏山母子寮

 

 50年は、新生活保護法が施行され、生活保護行政など民生委員主体の決定実施から市町村長の決定行為に変更され、公的責任を基本とした近代的福祉体制が船出した年でもあった。生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法、いわゆる福祉三法などの法的整備も進み、行政としては専門性を持った指導的職員の育成が急務となっていた。栃木県では、南那須社会事業協会設立支援など困窮者支援活動で実績を上げている若い石川に白羽の矢を立てた。

 

 同年、石川は福祉指導者養成の本山・日本社会事業短期大学(現日本社会事業大学)に研修のため県から1年間現職のまま派遣された。成果は県行政に反映され、この時に得た知識や人脈が後に石川にとっても大きな力となった。

 

 石川は初代同和対策室長、衛生環境部環境整備課長、障害福祉課長、氏家コロニー長などを歴任し、82(昭和57)年1月、定年を待たずに55歳の時に退職、在職35年間のほとんどを福祉一筋に貫いた。退職動機は「地域に根差した特性に富んだ福祉活動・地域福祉のありようを、烏山町から全国に発信する」と、烏山町長選挙へ出馬した。しかし、落選。以後、民間社会福祉活動に情熱を注いでいく。翌年、自身の福祉の原点・社会福祉法人南那須社会事業協会理事長に就任した。蓬愛会設立の2年前だった。

 

【荻原芳明】

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