社会福祉法人風土記<60>賛育会 上 起源は東大YMCA

2020年0617 福祉新聞編集部
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左から木下正中・初代理事長、河田茂・賛育会病院初代院長、藤田逸男・第3代理事長

 東京都墨田区に本部を置く賛育会。設立から1世紀余を経て、関東大震災や東京大空襲など多くの困難を乗り越え、病院や特養などを東京都、長野県、静岡県で幅広く事業展開している。

 

 法人の起源は1888(明治21)年に発会した帝国大学学生基督教青年会(東大YMCA)にさかのぼる。1916(大正5)年に東大YMCAは本郷追分(現文京区向丘)に5階建ての会館を建設し、翌年には会館地下室に診療室「大学青年会医院」を開き会員の医師たちが無料診療活動を始めた。さらに同メンバーが中心となり、より幅広い活動をしようと18(大正7)年3月に賛育会を設立した。

 

 第1次世界大戦後、戦争景気は崩壊へと向かい、物価の上昇、特に米価の急騰などで疲弊し困窮する者が続出。防貧救済対策として大正6年には岡山県に済世顧問制度ができ、翌年には東京で救済委員制度、大阪に方面委員制度ができる。これらの制度は名称や組織は違ったが瞬く間に全国に創設されて戦後に民生委員制度に統一される。米騒動が発生し社会不安はさらに増大、この年に賛育会は誕生した。

 

 賛育会発起人の主要メンバーの一人・医学博士の木下正中(1869~1952、初代理事長)が名付け親だ。

 

 「賛育は、中国の『中庸』にある〝天地の化育を賛す〟(宇宙における物質の変化や生物の生育はすべて天地自然の力であり、人間はその力を賛助する)から取った。物質的に豊かな生活をしている人々は適当な助力を受けやすいがその点に不満足な人々は助力を受けるにもその途がないものが少なくない。それを救済したいというのが本会の出発点だった」(『賛育会の百年』)という。

 

 設立には後に民本主義・大正デモクラシーなどで知られる政治学者の吉野作造(1878~1933、第2代理事長)、藤田逸男(1886~1956、第3代理事長)、賛育会病院初代院長となる河田茂(1890~1959)、後の日本社会党初代委員長で1947年には第46代内閣総理大臣となる片山哲(1887~1978、第4代理事長)らが関わっている。

 

 発足した翌月には東京市本所区太平町(現墨田区錦糸)の古工場を借りて「妊婦乳児相談所」を開設、防貧事業としての母性保護事業・乳児事業を始めた。翌年、19(大正8)年8月には、本所区柳島梅森町(現墨田区太平)に庶民を対象にした日本最初の産院「本所産院」を開設。さらに産院内に「乳児院」を開き、母親を失った1歳未満の貧困乳児の昼夜保育を実施。「産婆学校」も開設した。

 

 事業は順調に展開していたが、23(大正12)年9月、関東大震災が発生、本所産院と乳児院は焼失した。それでも、賛育会本部は小学校を借りて救済班を組織、救護活動に協力するとともに臨時産院を設け罹災乳児の収容保育を行った。のちに〝賛育会を復興の途につけた人〟と言われる医師・河田茂は救護活動をしつつ、宮内庁と粘り強く交渉し1000円の救済金を下賜され、その年の暮れには本所産院(のちの賛育会病院)と乳児院の仮の建物を完成させた。

 

開設当時の本所産院

 

社会事業への転換

 3年後に賛育会は財団法人となり吉野作造が2代目理事長に就任。従来の無料診療から実費徴収に、慈善事業から社会事業へとかじを切り活動を拡大した。翌年には大井診療所(大井病院)を開設するとともに錦糸病院の経営を委託される。1930(昭和5)年に病床数132の賛育会病院を開設し河田茂が初代病院長(大井病院長兼務)となった。翌年には看護婦養成所を設置、夜間診療も開始する。

 

 33(昭和8)年、藤田逸男が3代目理事長に就任、56年までの間、戦争に翻弄された時代から復興への激動の時代を23年間理事長として法人をけん引する。

 

 昭和12年には訪問看護の先駆けとなる「訪問看護婦事業」を開始、賛育会病院で生まれた乳児の家庭を訪問し保育指導を行う。同17年には石島病院開設。やがて戦争が激化。米軍の本土攻撃に備えて空襲による延焼防止と避難場所確保のため「建物強制疎開」命令が下され、昭和19年12月に大井病院の取り壊しが決まる。年が明けると米軍の空襲が本格化する。

 

【荻原芳明】

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