ララが来た エスター・ローズ⑥
62年、日本に尽くして

2013年1125 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加
関西が好きだったミス・ローズ(中央)。妹キャロライン(左)、菊地勝子さん(右)と京都で=1975年

 無謀な戦さを「総ざんげ」した日本国民は、平和を希求した。皇室の窓を世界へ開こうと皇太子さま(現・天皇)の家庭教師として米国からバイニング夫人を迎えたのも、そんな決意の現れであろう。

 

 引き受けるべきか、夫人は迷った。友人のミス・ローズへ相談した。「あなたこそ適任では?」と。「日本通ではないこと」などの選考基準や、そのころ日本救援プランに没頭していたミス・ローズは渡日を強く勧めている(バイニング夫人「天皇とわたし」)。

 

 ところが4年後の1950(昭和25)年、帰国する夫人の後任に。以来、皇室で教えること8年に及んだ。ある日、少年の常陸宮さまに紅茶の砂糖を勧められた。「これはえらいこっちゃ(紅茶)」。日本語のしゃれで周囲を和ませたという(村井長正・元東宮侍従、「一クエー
カーの足跡」)。飾らぬ温顔は相手を包み、でも「自分には厳しい人でした」と長く秘書をした元・校友会長の菊地勝子さん(90)はいう。

 

 社会福祉事業も年々忙しくなっていく。ララ代表・バット博士の夫人と並び、ミス・ローズも1947年、理事に加わった児童福祉施設「興望館」(東京都墨田区)。1919(大正8)年、日本キリスト教婦人矯風会外人部会の地域奉仕活動に端を発するが、46年12月3日の理事会記録には「ララ(中略)ノ物資配給ヲ受ケ」とある。第1船の横浜港到着が11月30日だから、びっくりするほど早い。

 

 近所にも分けた。「いまでも『娘が育ったのはララのおかげ』というおばあさんがいます」と野原健治・興望館長(61)。校長のミス・ローズが引率し、普連土学園の生徒が同館でペンキ塗りをした。自ら天井へ向けていたはけから、校長のメガネへポタッ。みなで笑い合ったという。

 

 一方、彼女を駐日代表とする米国フレンズ奉仕団(AFSC)は「国際ワークキャンプ」を実施。東大、早大、日本女子大、広大、九大などの学生に高校生や米国、フィリピンなどの若者も交じり、被爆地・広島や全国の養老院、障害者施設の整備、伊勢湾台風(1959年9月)の被災地などで「もっこ」(日本古来の運搬用具)をかついだ。シャペロン(付添人)として、ときに彼女の姿も。そのボランティア精神はいま、「フレンズ国際ワークキャンプ」(FIWC)へ受け継がれている。

 

 ミス日本コンテストはララに感謝する女性親善使節を選ぶため始まり、初代の女優・山本富士子らが米国へ派遣されている(1951年)。衆議院はララへ、日系市民へ、3度も感謝決議を採択した。

 

 滞在37年、役職を辞して63歳の1960年4月、フィラデルフィアへ。しかし、すぐアルジェリア難民救済に飛ぶなど「活発な人柄」(畠中ルイザ・普連土学園理事長)は変わらなかった。

 

 日本からの客を温かくもてなし、その後も4度来日した。19年目、家族団らんのあとベッドに入り、眠るように息を引き取った。82歳。

 

 ともすればアメリカ人同胞からさえ異端視されかねない危険も省みずに日系人らを助け、「汝の隣人を愛すべし」の教えを守り通した、徹底したクエーカーであった。(敬称略、おわり)
【横田一】

    • このエントリーをはてなブックマークに追加