ハンセン病者の母 ハンナ・リデル④ 姪エダ・ライトの来日

2014年0414 福祉新聞編集部
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ハンナ(右)と姪のエダ・ライト (リデル・ライト両女史記念館提供)

 回春病院では、ハンセン病患者に清潔な部屋と食事が与えられ、専任の医師が治療にあたった。入院費用は、1カ月当たり1等12円、2等8円、3等2円(明治39年当時)。ただし、本籍地の貧困証明書があれば無料、信者には教会の援助がある。布団などの日用品は原則自己負担だが、貧しい患者のためには支給された。

 

 1902(明治35)年の日本婦人衛生会でのハンナの講演記録では、当時の病院の年間経費は約5000円、主としてイギリスの友人によって支えられていると説明しており、個人の善意の寄付が頼りだった。

 

 一つの例が「日々の糧」リーグ。病院の1日の食費40円を支えるには年1000円の基金が必要。このために、主に婦人を対象に誕生日や結婚記念日などの記念寄付を呼び掛けた。

 

 個人、グループ、団体でも受け付け、日本国内でもハンナが講演旅行に出向いては寄付を募った。イギリス人の多くがするように、ハンナは毎年夏には軽井沢へ避暑に出かけたが、軽井沢に集まる外国人や日本人の貴族、金持ちからの寄付集めが目的だった。

 

 そのころ、ハンナの姪エダ・ライトは23歳になり、宣教師になるための学校ウィローズを出ていたことから、ハンナはエダを呼び寄せたいと願いCMS(英国聖公会宣教協会)に手紙を書いた。間もなく願いは聞き入れられ、エダは蒸汽船での1カ月半の旅路を終えて1896(明治29)年、長崎経由で熊本に着いた。

 

 エダが着いた時期に、新しい主任医師として三宅俊輔が回春病院に赴任してきた。三宅は敬虔なキリスト教信者で、温厚篤実の人柄。患者に優しく接し、深夜、早朝を問わず、患者の求めに応じて診察、治療にあたった。三宅は30年勤め、患者たちから「我らの慈父」として、崇敬と愛慕の的となる。

 

 エダと、信頼できる三宅医師も着任して、病院経営に明るさが増した矢先、ハンナにCMSから手紙が届いた。帰国の指示だった。宣教師として赴任した後、一定期間が過ぎると休暇を取って帰国し、活動報告をするルールによるもので、同僚のグレイスと共に帰国すべしだった。

 

 ハンナにしてみれば、エダは着任したばかりで、グレイスと一緒に熊本を離れることは心配だった。このため、2年間の任期延長に耐えられるとの診断書を提出、1897年にグレイスだけを帰国させ、自分は残った。ところが、ハンナは腹膜炎にかかり、敗血症を併発、長期療養を余儀なくされるトラブルを起こした。

 

 その上、折悪く上司のブランドラム牧師の精神状態が悪くなった。上司の意向や意見を尊重しないハンナの仕事ぶりに原因があると、エヴィントン主教も非難し始め、CMSのハンナを見る目は厳しさを増した。

 

 ハンナは病院経営をしながら、宣教師としての活動も頑張っていた。座右の書「日々の光」を翻訳・出版、入院患者10人をキリスト教に改宗させ、熊本警察署長と親しくなって、警察監獄署員向けの雑誌を作り、伝道に役立てていた。

 

 思いついたら行動するタイプのハンナに対して、ハンナを帰国させるべきとの声がCMSで強まり、先に帰国したグレイスが熊本に戻った後の1899年3月に帰国させられたのだった。(敬称略)

 

〈参考文献〉猪飼隆明著「ハンナ・リデルと回春病院」、内田守編「リデルとライトの生涯・ユーカリの実るを待ちて」

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