大戦で唯一、疎開した知的障害者施設 山梨での過酷な生活とは
2015年08月13日 福祉新聞編集部
第二次世界大戦中に、日本国内で唯一疎開した知的障害者施設がある。社会福祉法人藤倉学園(川田仁子理事長)の障害者らは終戦1年前の1944年、軍の要請で東京都大島町から山梨県へと疎開。しかし、環境の変化により10人もの障害者が命を落としたという。そうした過酷な疎開生活を追ったテレビ番組が8月中旬にNHKで放映される。
現在、東京都大島町などで知的障害者入所施設を運営する藤倉学園は、 19年にアメリカで障害者支援を学んできた川田貞治郎氏が中心となって創設。当時65人ほどの知的障害者がおり、年齢や障害程度ごとに支援する独自の実践をしていたという。
軍から疎開の要請があったのは、44年夏ごろのこと。大島を軍の拠点として要塞化する計画が持ち上がり、藤倉学園は軍に従うしかなかった。
現在は法人の評議員で川田貞治郎研究をしている高野聡子・聖徳大准教授(特別支援教育)は「藤倉学園は、戦時中に疎開した唯一の知的障害者施設でしたが、そこに弱者優先の視点はなかったのです」と話す。保護者が迎えに来るケースもあり、結果的に約30人が山梨県清里へと集団疎開することになった。
だが疎開先では、多くの困難が待ち構えていた。一年を通して比較的温暖な大島とは異なり、標高は1300㍍。強烈な寒さと飢えで体調を崩す障害者も少なくなかった。また、「川田氏は疎開先の会合などに参加し、地域に溶け込もうと努力していた形跡もあります」(高野准教授)という。
結局、厳しい環境の影響か、1年2カ月にわたる疎開生活で10人が命を落とすことなる。大島に戻った障害者は15人だった。
19・20日NHKで番組
こうした疎開生活について、NHKは8月19・20の2日にわたり、ハートネットTV「シリーズ戦後70年」の中で放映する。藤倉学園の職員が戦前戦後に記した業務日誌や記録映像を紹介するとともに、疎開先での悲劇の経緯や背景を追う。
川田理事長は「当時は硫黄島が陥落したこともあり、私たちには大島を明け渡す選択肢しかありませんでした。そうした状況にあったことを知ってもらえれば」と話している。
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