社会福祉法人風土記<20> 児童養護施設 讃岐学園 上 受刑者の子らに注がれた温情

2017年0216 福祉新聞編集部
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遊び場のウッドデッキ「みどりの砦」
遊び場のウッドデッキ「みどりの砦」

 JR高松駅から東へ約20キロ。名勝「屋島」を望む高台に「讃岐学園」(高松市)はある。社会福祉法人「弘善会」(理事長=菅智潤・真言宗善通寺派宗務総長)の児童養護施設だ。寮わきの「けやき広場」に建つ木造2階のウッドデッキ「みどりの砦とりで」には、学校や保育園から帰った子どもたちが遊ぶ元気な声が響く。

 

 広場で自転車を乗り回すヘルメット姿の幼稚園男児が、突っかかるように寄って来る。「おじさん、こっちも見てよー」と言わんばかりに。どこか寂し気な影を感じさせる表情で。

 

藤井敏孝園長

藤井敏孝園長

 

 「平成に入り、家で虐待される子が目立ってきた。いま6割ほど」と藤井敏孝園長(62)。家族と離れて日々過ごす園児たち。愛情に飢えているのだろうか。

 

産声は118年前

 

 園の前身を「高松保育会」という。設置者は香川県監獄署の高木光久典獄。今の刑務所長だ。女性受刑者が連れた幼子を放置するに忍びず、1899(明治32)年、高松市内の深妙寺で産声を上げた。

 

 善意の署員による運営だ。ほどなく町の孤児・貧児も預かるようになって十数人に増え、同市内の民家へ移った。

 

 早くも翌年、暗礁に。高木典獄の千葉県監獄署への転勤、協力する署員の転出などにより継続不能に陥る。もともと人員は少なく、また片手間でこなせる仕事ではない。署員の長谷川新太郎は職を辞して対応したもののいかんともしがたく、真言宗の僧侶有志に助けを求めたのである。

 

創始者の高木光久典獄

創始者の高木光久典獄

 

 四国は遍路の地である。真言宗を開いた弘法大師空海(774~835年)の遺徳を慕って八十八カ所の札所を歩く「同行二人」の旅は、「お接待」の文化を育くんだ。札所のほとんどは全国18本山に分立する同宗派の寺である。

 

 僧侶たちは1901(明治34)年、真言宗の重鎮・土宜法竜師(のちの高野山真言宗金剛峯寺第386代座主)を会長に、「讃岐保育会孤児院」の名で事業を継続した。高松市二番丁に翌年、2階建ての園舎を新築して移転。孤児院の名称を嫌い、いまの「讃岐学園」へ改称(1910年)している。

 

 

真言宗派が支え手に

 

 

 福祉に魂を入れるのは人以外にない。園名を改めた同じ年、〝園の父母〟として宮武源助・タツ夫妻を迎え、運営は安定してきた。温厚な源助は愛媛県の元警察署長。患って官を退き、静養ののち園を引き受け、1930(昭和5)年の退任まで20年間、しっかり者のタツと親身に子どもたちを世話した。勉強室に机やいすを新調した。小学校の補習授業や幼稚園で教えるくらいの教育を始めてもいる。

 

 明治末期から大正にかけ、20~35人が園で暮らした。食費、学費など毎月出ていく。創立から10年は赤字続き。宗派の支援のほか、篤志家よりの米や服の寄贈、県内の駅、港、学校、精米所などに置いた「同情函」「慈善函」で喜捨を仰いだ。「基本金の利息と行政の補助金、慈善家の寄付金でどうやらこうやら維持している」(1917=大正6年5月園月報)。

 

 その中で小学生はマッチ箱張りなどアルバイトで貯金したこともあるが基本的には行商など苦役は避けている。成長し、商家への奉公、職人、僧侶、あるいは身内に引き取られ退園していった。

 

 やがて建物は老朽化、1932(昭和7)年に高松市西浜新町の新園舎へ移った。戦争がし烈になるに従い、物資とともに園児は数人にまで減った。そして、45年7月の米軍機による高松空襲。幸い焼け残った建物には戦災者ら一般人も住んだという。

 

 敗戦。その日の食料にも事欠く有様となった。しかも、宗派の本山分立問題から全体支援は難しくなり、全国約250カ寺の真言宗善通寺派がバックアップする新たな体制で戦後の荒波へ漕ぎ出していく。【横田 一】

 

 

 

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