社会福祉法人風土記<38>阪南福祉事業会 上 別珍で非行少年の職業補導

2018年0705 福祉新聞編集部
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創設当時の公道授産会の建物

 「少年非行の温床は貧困にある。少年たちに職業を与えて自立した大人になる手伝いをしよう」

 

 社会福祉法人「阪南福祉事業会」(大阪府岸和田市・貝塚市など)の源流は、創設者、永野勇吉のこの思いにある。

 

 仕事にあぶれた若者たちが巷にあふれている社会は、どこも治安が良くないものだ。1927(昭和2)年に金融恐慌が起こった日本は、29(昭和4)年の世界恐慌でとどめを刺され、白木綿を軸に織物産業で「糸へん景気」を謳歌していた大阪南部の泉州地方にも不況の波が押し寄せた。定職を持たない不良少年問題が深刻になっていた。

 

 「何人か、君の工場で引き取ってくれないか」

 

 1932(昭和7)年、大阪府岸和田市(当時の泉南郡山直下村)で、大阪府警の駐在巡査をした後、知人たちと別珍加工工場を営んでいた永野勇吉に、府警時代の先輩から声がかかった。大阪少年審判所(家庭裁判所の前身)から非行少年の職業補導の委託を受け、20人を工場に引き受けた。これがその後86年も続く福祉活動の出発点となった。

 

 

別珍加工工場での授産訓練

 

 勇吉の孫で現法人理事長の永野孝男(73)が永野家の家系を話す。

 

 「祖先は何代か今の泉佐野市の寺の住職をしていた。勇吉の父親・松之助は寺子屋で子どもたちを教えていて、明治5年には訓導という辞令をもらい教師をしていた。だが42歳で世を去り、その息子の勇吉は18歳で大阪市に出て炭屋を開いたが従業員に売上金を着服され1年で店を畳んだ。途方に暮れて天王寺公園のベンチに腰を下ろしていると、新聞で大阪府警巡査募集を知り、巡査に採用されました」

 

 短気だが、正義感は人一倍強く、世の中の役に立つことをするという思いを口にしていた。子どもや若者の更生に協力するという冒頭の言葉は、そんな生い立ちから自然に生まれたものだった。

 

 初めて少年20人を受け入れた翌33(昭和8)年には、工場敷地内に職業訓練施設「公道授産会」を開設した。これが司法省より少年保護団体として認可され、受け入れ少年の数もその後、100人程度にまで増えていった。

 

 寮舎、炊事場、食堂、新工場が次々と建てられ、順調に福祉活動がスタートしたその矢先、一気に倒壊する悲劇に見舞われた。34(昭和9)年9月に西日本一帯を襲い死者・行方不明者3000人超の大被害を与えた室戸台風によって、新旧工場が跡形もなく倒壊したのだ。
 全国からの義援金で復旧工事にかかったものの、翌年にも大雨の被害に遭った。近くを流れる牛瀧川が増水、橋が次々と落ち、濁流が家屋に流れ込んで家財道具が流失した。

 

 だが、最大の災禍は戦争だった。1930年代に入ると日中関係が悪化、中国大陸での戦火が拡大していき、国内は物資不足が深刻化していった。別珍工場も38年、廃業を余儀なくされた。

 

 その当時、病気入院するなど体調がすぐれなかった勇吉に代わり、岸和田紡績に勤めていた息子の永野孝(前法人理事長、1914~2003年)が家業の手伝いに入った。

 

 孝も子どもの頃から病弱で、徴兵検査は「丙種」だったが、工場を軍需会社に売却し、その跡地に収容した少年たちの作業場を造り、父の福祉の志を継いだ。大阪市内の文具店と話を付け文具加工の仕事を請け負い、100人ほどの収容少年に仕事の場を作ったのだが、「当時はよく逃亡事件が起こったものだ」と孝は述懐している。

 

 1941年日米開戦から太平洋戦争が本格化すると、戦時体制下の国家総動員法により、43年、「少年保護施設を錬成道場に転換せよ」という命令が下った。錬成道場とは、当時、各地の軍需工場に徴用されていた工員のうち、無届欠勤、なまけ・さぼり、上司の命令に従わなかった者を一定期間収容して精神をたたき直す〝懲罰機関〟だった。

 

 「私の力では到底できない」と断る勇吉だったが、大阪少年審判所の再三の命令に断り切れず、施設建物に「産業青少年第三錬成道場」の看板を掲げざるを得なかった。

 

 住友金属、佐野安ドック、名村造船、東亜バルブ、大阪アルミ、日鉄広畑など関西一円の軍需工場から16~40歳の男たちが60日間の特別錬成のために送り込まれてきた。

 

 「今考えてみると、よくあんな無茶なことがやれたなと戦慄せんりつを覚えるくらいだ」と、後日語った孝自らが先頭になってやった特別錬成の内容はーー毎朝5時起床、薄氷を割って牛瀧川に入ってみそぎ、道場に戻って神前で1時間正座、雪の降る日にパンツ一つで近くの久米田池の周囲を3、4周ランニングし、時には大阪市・住吉の護国神社まで往復マラソンも敢行ーーという懲罰的色彩の濃いメニューだった。

 

 そして45(昭和20)年3月13日、初めての大阪大空襲。大阪全市が火の海になり、南に約30キロ離れた岸和田市でも夜に新聞が読めるほどだったという。紀州沖に帰還するB29爆撃機が施設上空を通過した際、何発か焼夷弾を投下したが、施設に被害はなかった。

 

 「その前日に生まれたのが私です。おふくろは赤子の私を抱えて防空壕から一歩も出ずに無事でした」と話すのは孝の長男、孝男。やがて3代目のバトンを継ぐ永野孝男現理事長である。

 

 

【網谷隆司郎】

 

 

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