社会福祉法人風土記<42>思恩会 上 子どもや老人救う施設つくる

2018年1115 福祉新聞編集部
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七窪思恩園の子どもたち

 昔の出羽国は秋田県と山形県の二つに分割された。その山形県の西田川郡西郷村大字窪畑(現鶴岡市)に社会福祉法人思恩会の元となる、財団法人日本育児院(現社会福祉法人日本児童育成園)の分院・七窪思恩園が創設されたのは、1929(昭和4)年5月のことである。本院にあたる日本育児院は、飛騨国と美濃国が一つになった岐阜県の飛騨市古川町に、今から123年前の1895(明治28)年、日清戦争終戦の翌月の5月に創設された飛騨育児院の後身、濃尾育児院の発展した形である。

 

 

五十嵐喜廣初代理事長

 

 本院、分院いずれも創設者は鶴岡市湯野浜出身の五十嵐喜廣(1872~1944)。明治期に同じキリスト教精神に基づいて社会事業を展開した石井十次、留岡幸助と比肩する活動力を持ってその飛騨育児院、濃美育児院、日本育児院を運営した一方、国内8カ所、海外5カ所の計13カ所の分院開設、支部設置を実施したのである。変遷は目まぐるしい(本編・㊦の続きに詳細)。

 

 七窪思恩園のことである。五十嵐は郷土の農村の子どもたち、年寄りのためになればと、41歳で施設をつくるが、同時に防貧事業として「メロン研究会」を有志と立ち上げた。それは大正期に欧米視察、とりわけ米国でのメロンなどの農場経営に触発され、砂丘地(庄内砂丘)七窪での施設運営資金の確保と郷土の農業殖産のためであった。五十嵐は社会事業のみならず農業分野においても、庄内砂丘地メロンの先駆者として山形県に大きな足跡を残すのである。

 

 その五十嵐は本院(岐阜市)から分院・七窪思恩園に出張に来ていて急逝。1944(昭和19)年のことであった。行年72。創設からこの年までの16年間に何が国内外で起きていたのか。米国に端を発した世界恐慌(1929~33)の影響で米価大暴落、労働争議多発。37(昭和12)年、日中戦争。そしてアジア全域を巻き込む太平洋戦争(第2次世界大戦)に突入。4年後の1945(昭和20)年8月敗戦。戦没者は山形県だけで40834人(含む沖縄戦765人)に上ったのである。果たしてその影響はどこに顕著に現れたのか。当然のことながら弱者の年寄り、子どもにである。戦中では働き手は戦地に、留守を守る母子には食べるものさえない。乳児は母の乳が出ずに栄養失調。年寄りは年端のいかない孫のために食を抜き病気になると、その悲惨な出来事には枚挙にいとまがない。なお1929年、国は救護法を施行していた。

 

 この時期の七窪思恩園について、五十嵐の談話が『鶴岡市史』下巻(1962年刊)に記述されている。「(飛騨古川でのキリスト教伝道)途上、山中で捨子を見つけ、自分のボロ家(無償提供を受けた)で養い始めたのが社会事業に入るきっかけであった」として、郷土に29(昭和4)年に帰ってからは、「思恩園(七窪)は湯野浜から遠く離れた砂丘の松林の中に建てられていたため、電線の取り付けが容易でなく、創立後約十年間もランプ生活を続けた」と。妻子、働く人たちの苦労はどれほどであったことか。そこにいた児童は言うまでもない。

 

 

 ここから五十嵐喜廣の足跡を追ってみる。生家は鶴岡市湯野浜の高台に立つ恵比寿屋旅館(15年前に廃業)であるが、ここで両親と幼なくして死別している。この地に立つと日本海が目の前に広がり、北にはその日本海に山裾をなだれ込ませるように立つ鳥海山(標高2236㍍)が眺められる温泉地で、かつては出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)詣の人たちも立ち寄った所である。

 

 五十嵐17歳の時に、ここから南に5㌔ほど行ったところにある、江戸期は北前船の寄港地でもあった加茂港から新潟港に向かった。それは新潟県で最初に開校したキリスト教の私立男子学校の北越学館(1885~93)があったからである。教師の一人、松村介石の著書に感銘を受けてのことと言われている。教師陣に成瀬仁蔵、短期ではあったが内村鑑三が教頭として在籍していた。これらの人からキリスト教の教えを受け伝道師に。同館卒業後、一時体調を崩して湯野浜に戻るが、今度は東京神田に向かうなどする。そして、22歳の時に北米人宣教師と共に飛騨市内に入るのである。このことについては、自著も含め評伝、研究書も多数刊行されているが、それぞれ記述に若干の差異がある。そこで、それらをもとに飛騨古川市古川町を実際に訪れた。(探訪の一部を、㊦の続きに記述)

 

 

 五十嵐が亡くなった後、日本児童育成園の2代理事長・園長に、妻・よしが就任。本院から既に1933(昭和8)年に独立していた七窪思恩園の2代園長には親戚の五十嵐直一郎(在任期間1944~50)が就任し、共に食糧難の厳しい時代に船出をしたのである。

 

 50(昭和25)年、財団法人に組織変更し3代園長に日野三郎太が就任。この年、生活保護法、身体障害者福祉法が施行されたが、児童福祉法は既に47(昭和22)年に施行。52(昭和27)年、社会福祉法人に組織変更し、児童ホームを養護施設七窪思恩園、老人ホームを養老施設湯野浜思恩園に改称し、初代理事長に日野三郎太(在任期間1952~60)が就くことになった。

 

 親族である孫の村上喜忠(77)は、思恩園時代を振り返って『創立80周年記念誌・思恩』(2009年刊)に次の寄稿(抜粋)をした。「母と二人で雪の降る寒い晩、橇を引っ張って藤沢村役場近くの農家から餅をいただき、片道5時間かけて園まで運びました。父は11歳位の時ほとんど見かけることもなく、施設には居りませんでした。施設の子供、老人に方々の生活費を集めるために、外交に出ていました」と。

 

 五十嵐喜廣の晩年を知る加茂町の水産実業家、尾形六郎兵衛(1901~73)は「七窪の原野には松がいっぱい生い茂り、雨の日も風の日も砂丘を風浪から守っている。五十嵐さんの偉業は、社会の苦難を救う大きな防波堤になった」(評伝『社会事業の先覚者 五十嵐喜廣翁』(思恩会・1984年刊)

 

【髙野進】

 

 

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