社会福祉法人風土記<42>思恩会 中 子らの切なさ、夢に寄り添う

2018年1122 福祉新聞編集部
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増田康平・七窪思恩園長(左)と伊藤優美子・児童支援専門相談員

『荘内日報』(鶴岡市)1950(昭和25)年6月3日付に、鶴岡の長期欠席の学童哀史として、「太陽なき子に救いの手を」、7月3日付に「貧困と病気がもと」と伝えている。2年後の12月11日付では、「長欠児童を探る―酒田、鶴岡の実態は」に、詳細に戦後の一断面を報道している。

 

 その戦後について保科直士6代理事長(86)は淡々と語った。「子どもの養育から始まって、どこへも行けない老人。それを面倒見るのは五十嵐翁(初代理事長)にとっては自然のことだった。私は1932(昭和7)年生まれですから、戦後の生活の困難さをこの目で体で知っています。働き盛りの男は戦地から帰って来ない。そこを穴埋めするために私も勤労奉仕をさせられました。国の産めよ殖やせよの人口政策で、結果、たくさんの子どもが生まれた。農家の出身ですからよく分かるんです。その小さな手さえ働き手として必要とされ、子守り、家事手伝い。人によっては食べられないので、よその家に子守りに出される。それはまさにあの山形県を舞台にした、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』(1983~84放映)の世界でした」。

 

 少し間を置いて話を続けた。

 

 「みんな食べるのに精いっぱいで、特に戦争で働き手を亡くした家族は悲惨でした。生活が困窮する人が続出しました」。

 

 

保科直士6代理事長

 

 1948(昭和23)年、児童福祉法によって認可された児童養護施設七窪思恩園(定員63人)の増田康平園長、児童家庭支援センター(山形県初)所長(40)は、認可されて70年たった今の児童養護の現状を語った。

 

 「子どもたちは思春期に入ると『早くここから出て行きたい』なんです。でも、いざ退所の時期になると不安でいっぱいになる。長い児童は2歳から生活しています。退所後の〝ひとり暮らし〟〝家庭での暮らし〟をしたことがないんですから。反抗的で私に向かってきた子も例外ではありません。そんな時は寄り添ってあげる。また、この施設が断ったら行くところがこの子にないと分かったら、情報がなくてもまず引き受けます。思恩会の精神です。現在、入所している子どもの約8割は虐待です。最近気になることは養父(再婚相手)による虐待の増加です」。

 

 里親支援専門相談員も務める伊藤優美子さん(41)は、穏やかな微笑を浮かべながら、「勤務して20年になりますが、卒園した子が立ち寄ってくれて、私の作ったお菓子のことを、『あのお菓子さ、うめっけのー』と思い出を共有できることがうれしく、仕事の励みになります。私も2人の子の親になって、施設に来た子どもの切なさや悲しみの深さを、改めて感じさせられます」と話す。

 

 また、現在、知る人も減った戦後の救援物資「ララ物資」について、関わった人間としてそのことを伝えたいと、理事だった伊藤謙吉は『思恩会20周年記念誌』(1999年刊)につづっている。「ララ物資が届くようになった。大きな円筒のダンボール製のドラム缶に詰まっている脱脂粉乳、小麦粉、砂糖、衣類。メロン、野菜の種子、生きたヤギ2頭、チーズなどでした。衣類はきれいに洗濯されていました」。多くの乳幼児、児童の命が救われた。

 

 

 五十嵐喜廣は当初から児童養護事業と養老事業を2本柱として取り組んできた。五十嵐が亡くなって2年目、敗戦の翌年に県有財産を借り受け、七窪思恩園湯野浜分園(現養護老人ホーム湯野浜思恩園・定員50人)を設立。生活保護法(昭和25年改定)による収容保護施設として認可を受ける。それから55年目の2000(平成12)年介護保険法の施行によって、養護老人をめぐる環境が大きく変わったように思えるが、現場に立つ2人の職員は次のように語った。

 

 相馬直喜・養護老人ホーム湯野浜思恩園長(53)は、「一人ひとりが、本当に望むことを最後に実現させてあげたいですね。入所者50人。それぞれに生活環境が違います。もちろん生い立ちも。仕事が流れ作業にならないよう、人間としての尊厳を守るため、心して入所の皆さんに関わることを全職員に忘れないよう話しています。入所者の90%の人が何らかの精神障害があります。10%の人は自立していますが、いずれにしても望む生活を把握しながら関わっています」。

 

 千葉恭介生活相談員(32)は、自身の体験を踏まえて熱く語る。「寝たきりの祖母、介護していて倒れた祖父。それを身近で見ていて何もできなかった後悔と、近所にあった児童養護施設の子どもと遊んだり面倒見たりするのが好きだったため、私は住んでいた気仙沼(宮城県、2011年の東日本大震災で大きな被害を受けた所)から保育の勉強をするために仙台の学校に。そこに求人案内が来て児童と老人施設があることを知って、迷わず就職。11年には知り合いも亡くなった。ここにいる人も、いつ亡くなるか分からない。だから望むことにすぐに応えています。施設に入って夢を諦めるのではなく、思恩園に入った人には夢をかなえてあげたい」。

 

相馬直喜・湯野浜思恩園長(右)と千葉恭介・生活相談員

 

 

 思恩園利用者の声を、『思恩会60周年記念誌』(1989年刊)から拾う。

 

 「若い頃は、湯野浜温泉のホテルで送迎バスの運転手として働いていました。昔、この辺りは競馬場(草競馬場)だったと記憶しています。湯野浜思恩園の名前は知っていましたが、見たこともなく、今ここで暮らすとは夢にも思っていませんでした」(抜粋)、と感謝の言葉を述べていた。

 

【髙野進】

 

 

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