日比谷公園  ホセ・リサール

2014年0217 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加
ホセ・リサールの胸像

 日比谷公園の日生劇場に面した内側にフィリピン独立の英雄、ホセ・リサールの胸像がある。彼はフィリピン人と中国移民の混血の家系に生まれた。

 

 最高学府サン・トーマス大学で医学と哲学を修めスペイン語の詩コンテストで最優秀賞を得てマドリッド大学に留学する。1885(明治18)年、哲学博士、医学士の資格を取得。次いでドイツのハイデルベルク大学で医学と社会学を学ぶ。

 

 1887年、ベルリンで「ノリ・メ・タンヘレ」、ラテン語で「我に触れるな」を著し、同年、26歳でフィリピンに帰国する。これが反植民地的であるとスペイン人社会で問題視され、身の危険を感じて27歳で再び、留学の旅に出る。

 

 2回目の旅は日本、アメリカを経由してヨーロッパに向かうこととなった。1888年、横浜着。東京では日比谷にあった東京ホテル、麻布のスペイン公使邸に滞在している。

 

 日本滞在はわずか2カ月だったが、各地に旅行している。その際、元旗本の娘、臼井勢以子がガイド役となっている。勢以子の兄は彰義隊員で上野で戦死、父は明治になって貿易商で財を成した。

 

 なぜか彼女の和服姿の肖像画がマニラのサンチャゴ要塞のホセ・リサール記念館にある。上品で賢そうな、ふっくらした美人である。2人の間にどんなロマンスがあったかは不明。リサールは彼女への思いを断ち切って4月に日本を離れ、サンフランシスコからマドリッドに向かった。

 

 1892年、4年にわたる留学を終え、フィリピンに帰国するが、直ちにタビタンパに流刑される。

 

 1896年、流刑を終えて軍医を志願。スペイン海軍の巡洋艦でキューバに向かう。地中海に入ったところでフィリピンの秘密結社カティプナンが独立闘争を開始したことが知れわたる。リサールはその首謀者だと疑われてバルセロナで逮捕され、マニラに送還される。軍法会議にかけられ銃殺刑の宣告を受ける。

 

 処刑の前日、1896年12月29日、母と2人の妹と2人のおいがサンチャゴ要塞で面会を許される。監守からアルコール・ストーブが妹の手に渡されるが、その中に「我が最後の別れ」の詩が隠されていた。

 

 彼は翌日、ルネタ公園(リサール公園)で公開処刑される。35歳であった。2年後、米西戦争でアメリカがスペインに勝利。フィリピンの統治権はアメリカに移る。

 

 フィリピンがアメリカから独立を果たすのは1946(昭和21)年、太平洋戦争終結の1年後のことである。

(松)

    • このエントリーをはてなブックマークに追加