ハンセン病者の母 ハンナ・リデル③ 女王の気品漂う容姿

2014年0407 福祉新聞編集部
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回春病院の開院式での記念写真(中央付近の帽子姿がハンナ)

 回春病院は、1895(明治28)年11月12日、エヴィントン主教を迎え、開院式を行い、スタートした。

 

 広い敷地に、診察室や病棟などが10棟、いずれも小さな建物が並んで立っている。こうした配置にした理由について、ハンナは「回春病院設立の動機に就いて」の中で、患者は、死ぬまでに20年、30年も生きている。一堂に入れ、画一的な療養生活をさせるよりも、1部屋に4人ずつ、それも眼が見えない、手が効かない、あるいは足が不自由など別々の障害がある者を一緒に入れて、4人がお互いにできることをし、協力しあえる家庭的な病室にするためと説明。「その間に言うに言われないところの美しい友情が湧いてまいるのでございます」とハンナはいっている。

 

 多くの貧者を入院させ、治療を行うのにCMS(英国聖公会宣教協会)からの年間60㍀では不足だった。手術室や隔離病棟、顕微鏡など施設・設備を充実させたいと願うハンナはさらに100㍀が必要と考えていた。

 

 ハンナは、180㌢を超す長身。黒の絹レース服姿はビクトリア女王を偲ばせる気品が備わっていた(1917年、大阪赤十字病院で講演の通訳をした古屋登代子・大阪古屋女子英学塾長の回顧)。

 

 ハンナ自身もそのことは自覚していたようで、貴婦人を思わせる服装、装身具が好みだった。このためか、貴族と思う日本人も多かったようだ。

 

 ところで、ハンナの祖父はスコットランド系の手織り職人で、父は軍人だった。ハンナ・ハントという子持ちの女性と再婚、ロンドンに近いバーネットで1855(安政2)年にハンナは生まれた。

 

 父親は大男ではないので、背の高さは母譲りかもしれない。ハンナ20歳の時、南ウエールズのザ・マンブルズという漁村に移り、ここで母親とともに「良家の子女のための学校」を開く。

 

 一家には、後にハンナを手助けし、経営を引き継ぐ姪のエダがいた。1886年に母が、1889年には父が死亡したため、後に学校は破産宣告を受けてしまう。

 

 ハンナはリバプールに移りYWCAの総主事に、その後、CMSの宣教師として受け入れられる。「ハンナ・リデルと回春病院」の著者、猪飼隆明・元熊本大学教授が、1993年にイギリスに渡り、ハンナの出自を詳しく調べたが、ハンナの学歴は不明だった。

 

 宣教師になるには聖書などの基礎知識をウィローズで学ぶが、ハンナは卒業していない。猪飼元教授は「公的な初等教育のほかに家庭教師も含め高等教育を受けたのだろう」と推測する。

 

 外出するときは人力車。体格がよかったので大型の2人引きを使った。「リデルとライトの生涯・ユーカリの実るを待ちて」の編者、内田守は「私の印象」の中で、ハンナの優しい人柄を示すエピソードを書いている。

 

 ある時、ハンナが人力車に乗って五高(現熊本大学)付近の曲がり角に差しかかった時、隠れていた2人の子どもがいたずらで、人力車の車輪に長い青竹を差し込んだ。人力車は横転、ハンナは投げ出され、2人の子どももはずみで跳ね飛ばされる出来事があった。この時、ハンナは驚きながらも、起き上がると子どもに駆け寄って、けががないか確認して、叱らなかった。

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