ハンセン病者の母 ハンナ・リデル⑤ 大隈重信と出会う

2014年0421 福祉新聞編集部
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大隈重信からハンナに届いた手紙

 ハンナから事情を聴いた結果、CMS(英国聖公会宣教協会)の結論は「熊本への帰任は望ましくない」だった。熊本に帰れないことは、ハンセン病患者の救済と回春病院の運営をやめることにつながる。ハンセン病患者の救済を神から授けられた使命と考えているハンナにしてみれば、受け入れ難いことだった。

 

 1900(明治33)年12月、ハンナはついにCMSに辞表を提出した。すると、熊本にいた同僚のグレイスも辞任したとの知らせが入った。ハンナは、決然と熊本への帰途に就く。

 

 CMSから離れ独力で病院の経営をしなければならず、姪のエダの処遇も含め、不安を抱えながらの船旅だった。そして、翌年1月、熊本に着いてみると、驚愕すべき事態となっていた。半年前にエダも辞表を出し、熊本からいなくなっていた。

 

 エダは、ハンナの留守中に、日本語の習熟が遅れているとの理由で、鹿児島に転属させられた。日本人ですら分かりにくい鹿児島弁の地で日本語が上達するはずはなく、挫折したエダはCMSを辞めた。

 

 エダを救ったのは、ハンナの支援者である五高の本田教授。東京のアメリカ聖公会を紹介し、エダは見習いをした後、前橋、熊谷、浦和、水戸で宣教活動に従事していた。1900年はハンナにとって、波乱の年になった。12月、上司だったブランドラムが精神錯乱状態となり、治療のため香港に向かう船上で、心臓発作をおこし死亡したのだった。

 

 回春病院は開設当時、外国人が日本の不動産を取得できない事情から、本田教授ら日本人協力者の名義で土地を購入していたことがハンナの立場をよくした。病院創立者のハンナの立場は不変だった。

 

 病院経営の最大の課題は運営費で、後援組織を拡大強化することだった。イギリスでは、リバプールの友人が後援組織を作ってくれ会長になってくれた。

 

 熊本の殿様だった細川家が病院の隣接地3000坪を999年間の賃貸の条件で提供してくれた。折しも、日英の条約改定のからみで、外国人の不動産取得が可能となり、土地、建物名義はハンナ名義に変更された。

 

 日本国内の支援組織づくりが課題だったが、日露戦争でイギリス船が日本へ来なくなり、イギリスからの寄付がストップ、香港の銀行への返済が滞り、ハンナは3000円の借金を背負うピンチに立たされた。

 

 そこで、日本政界の大物・大隈重信元総理に窮状を訴える手紙を書いたところ、1905(明治38)年10月、大隈邸に招かれた。ハンナは、ハンセン病患者の救済、回春病院設立の経緯を説明し、支援を求めた。

 

 ハンナの要請に、大隈は理解を示し、福祉事業に詳しい渋沢栄一と相談、翌11月には政財界などのリーダー約25人を東京・日本橋の銀行倶楽部に集め、ハンナを囲んでハンセン病患者救済の座談会を開いた。

 

 座談会は、ハンセン病の患者救済問題が国家的課題として議論された最初となった。最後に、満場一致でハンナへの支援を決めた。こうした動きに熊本県議会も12月には回春病院に1500円の寄付を決め、日本国内の支援態勢は急速に整った。(敬称略)

 

 〈参考文献〉猪飼隆明著「ハンナ・リデルと回春病院」、内田守編「リデルとライトの生涯・ユーカリの実るを待ちて」

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