ハンセン病者の母 ハンナ・リデル⑥ 専門の研究所が完成

2014年0428 福祉新聞編集部
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完成した研究所では菌の研究が始まった(リデル、ライト両女史記念館所蔵)

 ハンナには江木千之・熊本県知事から感謝状が贈られ、さらに大隈重信の配慮によって1906(明治39)年、ハンナに日本政府から藍綬褒章が授けられ、9月には病院が財団法人の認可を受けた。

 

 このころ、ハンナは東京など各地で「日本におけるハンセン病問題を如何にすべきか」と題して講演、この中で「日本が駆逐艦1隻の費用を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決する」と持論を述べた。大隈ら政府要人も活発に動き出した。

 

 同じ年の5月、大隈、渋沢ら13人の有力者が「癩予防に関する協議会」を開催した際に作った呼び掛け文がある。

 

 「海外の文明国といわれるところでは、厳重な予防と懇切なる救済がなされている。伝染病たる以上、国家は公衆衛生のために、国民は各自自衛のために相当な施設を必要とするので、ご意見を伺いたい」とし、「熊本県に設置せられる回春病院が、もっぱら外人の資力によって経営せられ、もっかその維持の困難を訴えて来たる一事について、国人が袖手傍観致し候は帝国の体面にも拘る」と述べている。この結果、回春病院への支援は厚くなり、政府のハンセン病対策も急展開した。

 

 だが、ここに至るには前段があった。1899(明治32)年の国会で、米国の新聞ニューヨーク・トリビューンに掲載された日本批判の記事が国会で問題になっていたのだ。記事は「なぜ日本人はハンセン病患者を救済しないのか、…いやしくも文明国の仲間入りをした国は…」の内容だった。

 

 そして、1907(明治40)年3月、法律一一号「癩予防ニ関スル件」が成立した。

 

 医師に、患者の消毒や予防法を指示させ、患者を診察した時は、3日以内に行政官庁へ届け出るよう義務付けるとともに、患者の家族には医師らの指示による家の消毒を義務付け、療養の方途や救護者のいない患者には療養所への収容・救護などを取り決めた。療養所は2年後、府県立で青森、東京、大阪、香川、熊本の5カ所に開設された。

 

 マスクもせずにハンセン病患者と接していたハンナの経験から、感染力は弱く、注意して接していれば感染はしないと確信を持っていたが、治癒に至る特効薬はまだ発見前で、ハンナはもどかしさを抱えていた。1913(大正2)年に第14代大阪府知事になった大久保利武が救済事業に熱心で、賀川豊彦らに講演の場を提供するなど啓蒙活動を行っていたのを知り、大久保に専門の研究所建設の協力を求めた。

 

 共感した大久保はハンナにも講演の機会を与え、機運が盛り上がったものの1917(大正6)年に淀川大洪水のため大久保が引責辞任し、足踏みした。次の林市蔵知事が救済事業を引き継ぎ、ハンナに再度、演壇に立つ機会が与えられ、専門研究所の必要性を聴衆に訴えた。

 

 その結果、大阪を中心に多くの寄付が集まり、翌年、白亜の洋館研究所が病院内に完成した。瀟洒な目を見張るような建物で、見学に来た第6師団の軍医たちも「陸軍にもこんな完備した研究所がほしい」とうらやましがったほど。(敬称略)

 

〈参考文献〉猪飼隆明著「ハンナ・リデルと回春病院」、内田守編「リデルとライトの生涯・ユーカリの実るを待ちて」
 ※おことわり=「癩病」は差別用語なのでハンセン病と記述してきましたが、法律名などに限って使用しました。

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