ハンセン病者の母 ハンナ・リデル⑦ 納骨堂で共に眠る

2014年0505 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加
教会堂に運ばれるミス・リデルの柩

 群馬県の草津温泉は古来万病に効くといわれ、ハンセン病患者たちが集まっていた。温泉入浴のほか鍼灸療法も行われたが、どれも決定的な効果はなく、自暴自棄になった患者たちの中には酒におぼれ、賭博にふける者も多く、けんか騒ぎが絶えず、警察も手を焼く状態だった。

 

 また、沖縄地方の島々では患者が出ると海岸などに遺棄する習慣のところもあって、患者たちは悲惨な状態に置かれていた。これを知ったハンナは、姪のエダと牧師を伴い草津に出かけ視察、1913(大正2)年には回春病院の日本人牧師を救済のために草津に派遣。沖縄にも牧師と元患者を派遣し、患者の救済活動を行った。

 

 1914(大正3)年、第1次世界大戦が勃発、欧米からの寄付金がストップした。日本国内の支援体制が整ったといっても欧米からの寄付金に比べると少なく、1910(明治43)年時点で日本国内分は全体の6%しかなく、ハンナはストレスのため体調不良に陥り、一時寝込んだこともあった。

 

 世間から嫌悪され、生まれた家に帰ることを許されないハンセン病患者たちの心配は『死んだ後、遺骨はどうなる』で、ハンナは墓地を院内に設置しようとしたが、墓地に関する法律によって許されず、1923(大正12)年、庭園の一角に石造りの納骨堂を造り、翌年には、念願の教会堂も完成させた。この教会堂はハンナが細部にわたって設計、和風建築の伝統とキリスト教の信仰上の要請とを結合させたデザインとなった。

 

 1926(大正15)年12月、回春病院の理事長に就いていたロンドン教区最高位の主教、ウイニングトン・イングラムが来日、初めて病院を訪れた。ハンナは、CMS(英国聖公会宣教協会)とは決別したが、教会とは深く結ばれており、主教は友人であり、ハンナの理解者だった。

 

 この時ハンナは71歳、すでに老境に達し、糖尿病を患っていたが、翌1927(昭和2)年、イギリスとアメリカに向けて寄付集めの旅に出かけた。

 

 1931(昭和6)年11月、熊本を中心に陸軍特別大演習が開催され、ハンナは熊本県庁で天皇に単独で拝謁した。無事に年を越えたが翌年の1月下旬、頭部の激痛を訴え、2月1日、危篤状態になり、3日、76歳3カ月の生涯を終えた。

 

 ハンナの葬儀は、聖公会九州地方部監督、アーサー・リーが司り、盛大に挙行された。会場の教会堂は皇室や内務大臣、熊本県知事、熊本市長、細川侯などから届けられた50を超す花束、花篭で埋め尽くされた。内外から138通の弔電が寄せられ、ハンナの大きな功績をたたえた。中でもハンナを母上と慕う患者代表の弔辞は参列者の涙を誘った。

 

 「噫、悲しい哉、三冬天暗く地塞み万象暗澹として人心痛む… 我が国古来病者多しと雖も慰むる者なく、家を逐はれて山野に隠れ、飢えては終に倒る、天を恨み人を呪ひ、慟哭の声巷に充ち、怨嗟の叫び雲に及び、仁者の救いを待つこと久し… 高恩仰ぎ難く、慈心計り難し、されど母上今や亡し、寂心頻りに動いて悲痛極まりなし」

 

 遺骨はハンナの希望に従い病院内の納骨堂に亡き患者らの遺骨に囲まれるよう納められた。(敬称略)

 

〈参考文献〉猪飼隆明著「ハンナ・リデルと回春病院」、内田守編「リデルとライトの生涯・ユーカリの実るを待ちて」

    • このエントリーをはてなブックマークに追加