ハンセン病者の母 ハンナ・リデル⑧ 姪のエダが引き継ぐ

2014年0519 福祉新聞編集部
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回春病院から運び出される入院患者の荷物(菊池恵楓園自治会提供)
回春病院から運び出される入院患者の荷物(菊池恵楓園自治会提供)

 ハンセン病患者の母として生涯を全うしたハンナの遺志は、姪のエダ・ライトに引き継がれた。エダは、ハンナの母親と前夫の間に生まれた息子の子。エダ2歳の時に父が死亡。ハンナの母のもとで育ち、スイスの寄宿舎付きの女学校に行った。

 

 その後、ハンナも両親の相次ぐ死で波乱含みとなり、宣教師となる。エダも、宣教師を目指し、ハンナとCMS(英国聖公会宣教協会)との確執に巻き込まれてしまう。ハンナが回春病院の設立、運営に全力を挙げていた時期、エダはアメリカ聖公会の宣教師として前橋、浦和、熊谷、水戸などで伝道に従事。休暇中は熊本で、夏には軽井沢でハンナに会っていた。1923(大正12)年、宣教師を辞任、熊本でハンナの補佐をしながら、後継者教育を受けた。

 

 1932(昭和7)年、ハンナが永眠してからは、エダが回春病院の院長に、エダ62歳の冬だった。エダは院内に住み、夕方にはすべての病室を訪れ患者に声をかけて回る日々を過ごすようになった。エダは、小柄で、物静か、大柄で派手好みのハンナとは対照的だった。澄んだ鈴の音のような声で、患者たちは「美しい讃美歌の歌声は心に残っている」と書き残しているほど。

 

 エダはハンナと同様にキリスト教徒らしい倫理観の持ち主で、病棟は男女別々にし、結婚させない原則を堅持した。「しかし、図書室は男女共用で、短歌の会など文化活動も男女が自由に参加。恋愛は禁止だが、フレンドリーな交際は自由だった」(リデル、ライト両女史記念館、緒方晶子館長)。

 

 日本は次第に軍国主義的な色彩を強め、患者からも「紀元節のお祝いをしないなど、国家意識が欠如している」などの批判が出始めた。小笠原嘉祐社会福祉法人リデルライトホーム理事長は「回春病院では患者が近隣の商店街に買い物に出かけるのも自由だった。公立の療養所が周囲は高いコンクリートの塀で囲まれ、隔離収容の施設になっていただけに、自由な雰囲気が許されなくなっていたのです。回春病院は次第に閉鎖に追い込まれた」と語る。

 

 1931(昭和6)年の満州事変以来、1936(昭和11)年の2・26事件、ナチスドイツとの防共協定締結など、社会情勢が緊迫の度を高めるに従って、ハンセン病患者に一身をささげるエダにも警察の露骨な監視の目が光り、短波放送が聞けるラジオは秘密通信を聞くためとされ、スパイ容疑をかけられた。

 

 ついにはエダの住居に警官が泊まり込むようになり、訪問客との面会に警官が立ち会い、客が英国人でも日本語以外の会話は禁じられた。さらにエダを追い詰めるように、永年ハンナの秘書を務め、病院の事務・財政を担当していた飛松甚吾を警察が連行、3カ月も拘留し、病院の帳簿類を押収したのだった。

 

 このころになるとイギリスからも、アメリカからも寄付金の送金がなくなり、英国大使館からもエダに退去命令が出され、1941(昭和16)年1月13日の評議員会で、59人の患者全員を九州療養所に移し、財産は財団法人癩予防協会に寄贈と決まった。

 

 ハンナが心血を注ぎ、多くの人々の善意に支えられ、46年の歴史を刻んだ病院は解散させられた。2月3日、ハンナが亡くなって9年目の命日だった。事前に知らせては、患者が動揺する恐れがあるとされ、患者には当日、病院解散を説明、ただちにトラックで移送となった。(敬称略)

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