ハンセン病者の母 ハンナ・リデル⑨ 熊本こそがふるさと

2014年0526 福祉新聞編集部
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龍田寮の子どもを抱くエダ

 回春病院解散の日、患者たちは突然のことに驚きながらトラックに乗り込む。見送るエダは、トラックが動き出すと、泣きながらドアにしがみついた。関係者がしがみつくエダの指を一本、一本引き剥がすようにしてから走り出したという。26歳の若さで来日、信仰と愛のすべてを患者の救済に充ててきたエダにとって断腸の思いだった。

 

 1941(昭和16)年2月3日、「日々の光」の欄外にエダは書き残している。

 

 「政府は私から親愛なる患者を奪った。そして病院は空になった」

 

 4月になって、エダは友人が住むオーストラリアに退去することになり、見送りに来た宮崎松記・国立菊池恵楓園(旧九州療養所)長に「自分は世界のどこにいても回春病院とその患者さんのことは念頭から忘れえないことでしょう。叔母の遺骨も患者さんと共に眠っているのだから、もし自分が世を去ることになったら、遺骨は日本に送るから、どうぞみんなと一緒に眠らせてください」と言って去っていった。

 

 4月2日、神戸港から東京丸でオーストラリアへ向かうエダの元へ皇太后からの電報が届けられた。

 

 「ここに本邦救癩事業に対する多大のご尽力を深謝し、今後切にご自愛あらんことを祈る」

 

 日本を去ろうとしているエダにとって何よりの慰めになった。エダは、西オーストラリアのギルフォードという田舎町にいる友人ミス・フリースを頼った。多少の資産と年金があったのでそれを2人で分けて暮らそうと申し出てくれていたし、小さな家も建ててくれていた。

 

 ミス・フリースが1946(昭和21)年12月9日死去、エダは一人きりの境遇となった。戦争が終わっていたことで、エダは熊本に帰りたくなった。帰心矢の如くで宮崎園長に手紙で帰国の希望を伝え、地元の市長に出国許可を申し出た。

 

 78歳になっていた高齢の婦人が敵国だった日本に向かうことになかなか許可は出ず、エダは市長に「私の生きがいは愛する日本の患者さんのそばで生活することです。日本に帰って土になろうと、患者さんのところに行きたいのです」と訴え、1948(昭和23)年4月、やっと出国した。

 

 同年6月10日、エダは熊本に帰ってきた。回春病院の病棟の跡地には、ハンセン病患者の子供たちで健康な者たちの保育所龍田寮が財産の寄付を受けた癩予防協会の手で建てられていた。住居の内部は破壊され、エダを失望させたが、旧医師住宅に手を加えて住まいとした。

 

 日本に帰れたことだけを喜びとして、エダは寮の子供たちをかわいがり、日曜日には菊池恵楓園に出かけ、回春病院出身の患者らと礼拝、旧交を温めるのを楽しんだ。が、1950(昭和25)年2月になると衰弱が激しくなり、26日に生涯を閉じた。享年80歳、遺言に従って遺骨は叔母や病友の遺骨と共に納骨堂に納められている。

 

納骨堂に並ぶハンナ(左)とエダの骨壺

納骨堂に並ぶハンナ(左)とエダの骨壺

 

 回春病院はさまざまな経過をたどり社会福祉法人リデルライトホームとして受け継がれている。(敬称略、おわり)

 

 〈参考文献〉猪飼隆明著「ハンナ・リデルと回春病院」、内田守編「リデルとライトの生涯・ユーカリの実るを待ちて」

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