母性保護を求めて 山田 わか① 苦界、そして帰国へ

2014年0602 福祉新聞編集部
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若き日のわかと、夫の嘉吉

 人の尊厳をむしばむ性の商品化。遠いアメリカでその苦界を脱し、やがて評論家として名を成した山田わかは、母性と子ども保護の視点から声を上げ続けた。性の解放が進む現代、その意義はますます重要になっている。

 

 「数奇な前半生」。後年、講演活動などを共にした女性解放運動家、平塚らいてう(1886~1971)は、わかをこう評した(自伝「元始、女性は太陽であった」下)。米国で強いられた涙の過去を指してのことである。

 

 地主の家柄の三女として1879(明治12)年、神奈川県の半農半漁の村・久里浜(現・横須賀市)で生まれた。女乞食に食べ物をあげるなど優しく、朗らか、利発な子であったという。尋常小学校を優等な成績で卒業し、進学を望んだ。「女に学問はいらない」という時世。結局、子守りや畑仕事をし、16歳で他家へ嫁いだ。

 

 ところが、生家を継いだ長兄の代に実家は財を失い、奔走するものの、婚家などから助けは得られなかった。「アメリカなら、うまい仕事があるよ」。職を求めて歩いた横浜で、わかは女衒の口車に乗せられてしまう。18歳のころという。

 

 「純朴な人柄」と、戦前わかが初代委員長をした母性保護連盟の事務所で働いた故・五味百合子さん(元日本社会事業大教授)は書く。

 

 夫の元を離れ、太平洋の荒波を渡った先の米西海岸シアトルで彼女を待ちうけていたのは売笑窟であった。

 

 「全く暗雲に閉ざされた闇黒界を躓きながら、血まみれになってやうやく息だけ続けて居た」

 

 本名を奪われ、〝アラビヤお八重〟と呼ばれた苦しい日々を推測させるかのようなフレーズを自著「恋愛の社会的意義」(1920年)の一文で記す。

 

 30代になる邦字紙記者の導きで脱出したのは約6年後であった。〝駆け落ち風〟にサンフランシスコへ。そのいきさつは1929(昭和4)年出版の在シアトル邦字紙社主による「米国西北部日本移民史」に詳しい。らいてう、与謝野晶子(1878~1942)らとの母性保護論争などで既に有名であったわかの顔写真まで載っている。

 

 それらによると逃走後、記者は再び彼女を紅灯の巷へ立たせかねない借金騒ぎを起こした。わかはサンフランシスコにあるキリスト教長老派教会のシェルター・通称「キャメロン・ハウス」へ駆け込む。「会わせろ」と迫る記者は、かなわぬと知るや、牧師の前で服毒自殺したという。そこに至る悲劇は、本人の口からはほとんど語られていない。

 

 3年近いシェルター生活で手芸を覚え、聖書を通して読書を知り、洗礼も受けた。とくに同じ神奈川県出身の山田嘉吉(1865~1934)の主宰する日本人向け私塾(山田英学塾)へ通い、1905(明治38)年に結婚して生き方は一変した。

 

 嘉吉も苦労人だ。幼くして奉公へ出た。20歳のころ新天地を求めて渡米し、皿洗い、鉄道工夫などをしながら社会学を独習、広い教養を身につけていく。市川房枝(元参院議員、1893~1981)の兄もアメリカで師事している。

 

 26歳の新妻わかの聡明さを見抜いた40歳の夫は特訓を開始。外へ導いてくれた記者の墓をコルマの日本人墓地に建てて霊を厚く弔ったあと、そろって帰国したのは1906(明治39)年のサンフランシスコ大震災後間もなくであった。(敬称略)

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