母性保護を求めて 山田 わか② 夫がえらかった

2014年0609 福祉新聞編集部
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3誌の創刊号。左から「青鞜」(1911年9月)、「婦人と新社会」(1920年3月)、「女性同盟」(1920年10月)

 「〔暗黒界の人間ことに男性の〕頭から石油をぶっかけて…」とエッセーにつづるほど、男性に対するわかの憎しみは激しかった。その心情に夫はこう諭したと彼女は書く。

 

「あなたは其の熱情を効果あるやうに用ゆるために……智識をあつめなさい。学問なさい」(「青鞜」1916年1月号『自分と周囲』)。

 

 米国から帰った2人はJR四ツ谷駅に近い現在の東京都新宿区に居を構えた。広い知識をもつ嘉吉の「山田外国語塾」には右から左まで−平塚らいてう、市川房枝、山高(金子)しげり、伊藤野枝、生田花世、吉屋信子、斎賀琴、岡田ゆき−らが集まった。大杉栄も。多くは女流文学と女性の覚醒にと、らいてうが創刊した雑誌「青鞜」(1911~16年)にゆかりの、大正デモクラシーを彩った〝新しい女〟たちである。

 

 わかの青鞜デビューは1913(大正2)年11月号。南アフリカに住む女流思想家オリーブ・シュライネルのエッセー「三つの夢」を訳し、大杉の仲介で載った。翌々年には〝母の使命〟を訴えるスウェーデンの教育家エレン・ケイの「児童の世紀」の翻訳も連載。嘉吉を囲んで「エレン・ケイを読む会」を開き、らいてうが隣家に半年ほど越してきている。

 

 わかの名を高めたのは「母性保護論争」(1918~19年)だろう。まず「女性は経済的自立を」と歌人、与謝野晶子が母性偏重を批判。らいてうは反論、わかも同調し、国家による福祉を求めた。女性解放運動家の山川菊栄(戦後に労働省婦人少年局長)は、女性みずから選べる社会を、との論だ。すぐ答のでる問いではなかった。

 

 論争が落ち着くや、らいてう、市川、奥むめおらにより、婦人の政治的自由を目指す初の婦人団体「新婦人協会」(1920~22年、機関誌「女性同盟」)が誕生。母性・子ども中心主義のわかは、個人誌「婦人と新社会」(1920~33年)へ向かい、微妙にずれていく。♪命短し…街には哀愁漂う「ゴンドラの唄」がはやっていた。

 

 その後、市川らは1924(大正13)年、婦人参政権獲得期成同盟会(翌年、婦選獲得同盟と改称)をつくり、沈滞していた婦選運動を再出発させる。婦人や子どもの「福祉増進」も掲げた。参政権活動と並行したその主張は1934(昭和9)年、母性保護法制定促進婦人連盟(翌年、母性保護連盟と改称)を生み、他の婦人団体と協力し、母子保護法(1937年成立)へと実を結ぶ。婦人連盟の初代委員長として先頭に立ったのが、わかであった。

 

 嘉吉は、ふくよかで大柄な「おわかさん」をときに叱咤し、教え、らいてうとともに地方講演した折りなど「忘れ物はないか」と案じ、周りへ「お願いします」としきりに頭を下げたという。56歳だった1922(大正11)年、半年間の世界旅行中も14歳下の妻へ、愛情あふれる手紙を日本へ送り続けている。「女は床の間の飾りもの」とされた時代、婦人言論界の第一線へ、の情熱は稀有といえよう。

 

 一方、生活は質素だったらしい。市川が新聞記者をやめて名古屋から上京(1918年)、嘉吉に英語のレッスンを受けた。「ときどきご馳走になった食事も粗末なものであった」と自伝に残す。半面、「『おとうさんは葉巻好き。でも1本1円、月30円もかかったのよ』と祖母(わか)が話してました」と孫の山田弥平治さん(84)。病で他界したのは母性保護法制定促進婦人連盟の産声がひびく2カ月前であった。享年68歳。(敬称略)

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