母性保護を求めて 山田 わか ③泥棒、妊娠─産むべきか

2014年0616 福祉新聞編集部
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 母子寮、保育園はじまる。わか(前列中央)と  母子や園児ら=東京・幡ヶ谷で、1939年ごろ

 大正から昭和にかけ、〝新しい女〟たちは女権拡張や母性保護へ発言した。母子心中の多発など貧困、性差別を背景にした女性に対する桎梏(しっこく)の反映でもある。その元凶のひとつが明治民法による「家制度」(家父長制)。「蓄妾(ちくしょう)は男の甲斐性」などとする傲慢(ごうまん)もまかり通っていた。

 

 わかは1934(昭和9)年、母性保護連盟の初代委員長になった。その前後3年ずつ、東京朝日新聞家庭欄の女性相談回答者をしている(1931~37年)。歯切れのよいアドバイスは人気を呼んだ。わかの当初約1年間分の回答154件を、今井小の実・関西学院大学人間福祉学部教授(社会福祉)が分析している(「社会福祉思想としての母性保護論争」ドメス出版)。93件(60%)が「家制度」にからんでいた。

 

 連盟が母子扶助法や母子ホームの急設などを求めた理由がそこに見える。こんな不幸もあった。

 

 前年9月の夜。3日3晩続いた父親への寝ずの看病に疲れ、若い娘は自分の部屋で熟睡していた。そこへ押し入った泥棒に指環、時計、誇り(貞操)まで奪われてしまう。数日後、母や大学生の恋人へ打ち明けた。「不慮の災難」と彼は強く娘を抱きしめた。ところが、お腹に子が…恋人に話すべきか、産むべきか。

 

 心底同情しつつ、このときも、わかの答えは明快であった。「正直に告げ、子どもを育てよ」。寛大な心をもった男女間の恋愛と女性の秘める愛の力で禍(わざわい)を福となせ、と。〝人道の理想〟だ(1932年3月30日付)。

 

 当時も今も堕胎(だたい)は罪である(母体の危険などのケースは人工妊娠中絶容認)。同紙は翌日、識者6人の談話特集を組んだ。

 

 「堕胎を行ふべし」(小説家、菊池寛)/「子に罪はない、育てるのが至当」(仏教学者、高島米峰)/「法律の立場から堕胎は断然許されぬ」(穂積重遠・東京帝大教授=民法)▽「堕胎して自首を」(官僚・ジャーナリスト、下村海南)/「血統を絶ちたい−優性学の立場から」(永井潜・東京帝大教授=医学)/「母性の愛は強い」(徳永恕子・二葉保育園長)。

 

 入り乱れる賛否が問題の難しさを示している。わかは一躍、話題の人に。

 

 この一件は嘉吉の亡くなる約2年前のことだが、2人はもともと弱者の権利を訴え、ケアしてきた。アメリカで知り合った結核の友人父子へ旅費まで工面して帰国させ、自宅で看取ったり、殺人犯の娘を養女にしている(実子はいなかった)。夫の元を逃げ、わかを頼って地方から家出してきた女性を泊めてもいる。

 

 「身の上相談の回答は、女性の生活実態に対するわかの理解をさらに深め、アドボケーター(権利の護り手、擁護者)という役割も担うソーシャルワーク(社会事業)的な経験になったと思う」と今井教授は言う。

 

 ゆえに母性保護連盟における活動を、わかの社会事業への船出とみる研究者もおり、実際に委員長就任の翌年、社団法人「母を護るの会」を立ち上げている。男は男、女は女という性別役割分業の立場で母性を尊重し家庭を大切に、との思いだ。女性を窮屈な枠の内へ導くとの批判もなくはない。しかし、経済不況下、底辺に置かれた女性や子どもを守るため東京・幡ヶ谷で母子寮と保育園の創設(1939年)へつながっていく。(敬称略)

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