母性保護を求めて 山田 わか④ 米大統領夫人と会う

2014年0623 福祉新聞編集部
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戦後の花嫁を囲んで。山田わか理事長(前列右から3人目)、加藤ひさ寮長(同左から3人目)、山田民郎主事(同右端)や利用者、職員=幡ヶ谷女子学園で

 

 困窮母子を支える「幡ヶ谷母子寮」(15室)と「幡ヶ谷保育園」(定員60人)が東京市水道局の借地(現・渋谷区)に完成したのは1939(昭和14)年、理事長のわか59歳であった。母子保護法公布(1937年3月)の2年後である。

 

 その資金集めは当時、画期的といわれた。事業母体として4年前につくった「母を護るの会」の母らにより廃品回収をしたのだ。「母を護るの会奉仕部」と大書した大八車は新宿、四谷辺りを戸別訪問して〝くず〟を集め、換金していく。「仕事を取るな」。廃品回収業者は怒り、ヤクザまで来て脅したらしい。彼女はひるまず、説得した。

 

 作業にあわせ、母性こそ「国の力の源」といった戦時下のわかの国家(皇国)観もにじむ母性尊重精神を訴えた。収益は3年間で約6000円に達した(東京朝日新聞1939年11月4日付)。

 

 もうひとつ、31年ぶりのアメリカ再訪が施設づくりの背を押したと、親しかった五味百合子(故人、元・日本社会事業大教授)は書く。

 

 母子保護法公布の前月、東京朝日新聞家庭欄の改変で女性相談コーナーがなくなった。5カ月後、日中戦争の火ぶたが切られ(37年7月・盧溝橋事件)、わかは雑誌「主婦之友」の遣米婦人使節として10月に5カ月間の講演の旅へ横浜港をたつ。反日感情をほぐす役目を担って。

 

 訪問先は主にサンフランシスコ、シアトルなど西海岸だが、12月7日、ワシントンのホワイトハウスへ。8日付の米紙ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズによれば、ブルーの和服にグレーの帯姿でルーズベルト大統領夫人と会見。日中の母親は早く戦いをやめたいと願っており、米国の母親の助力を、と述べた。大統領夫人も賛意は惜しまなかったらしい。

 

 旅行中に寄せられた「物心両面の支援にも励まされ」(五味百合子「社会事業に生きた女性たち」)、母子寮と保育園は利他主義を掲げる彼女の実践の場となった。

 

 薄いクリーム色の板壁に緑の窓枠の2階建ては四囲の畑の中で目立ったという。運営は、養嗣子(ようしし)に迎えた元小学校教諭の山田民郎を主事、わかの妹(五女)で外国人商会で働くほど英語を使えた加藤ひさを寮長に、任せていた。ひさは外部の会議で多忙な姉宅のそばに引っ越していた。

 

 「おわかさんの家には身を寄せている女性が何人もいましたね。顔を合わせるたび、わかさんはニコニコ顔で私に声をかけてくれました」。小さな空き地をはさんだ向かいで生まれ、母性保護運動でひっきりなしに女性らの出入りする様子を見ながら少年時代を育った元運輸技官、長沢準さん(88)は「開放的な雰囲気で大らかな性格でした」。

 

 しかし政治は非情である。日米は開戦、家も施設も1945昭和20)年4〜5月の米軍東京空襲で灰に。「幸い亡くなった関係者はいなかった」(孫の山田弥平治さん)ものの、わかは生まれた三浦半島へ移住していく。

 

 その8月、日本は無条件降伏。街には浮浪児、米兵相手の私娼があふれ、GHQ(連合国軍総司令部)は早急な対応を迫った。このため母子寮の用途は変更され、敗戦2年後の47年春、婦人保護施設「幡ヶ谷女子学園」の名で再開することになる。(敬称略)

 

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