母性保護を求めて 山田 わか ⑤男性も女性も論争を

2014年0630 福祉新聞編集部
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1974年に幡ヶ谷女子学園は役目を終え、その場所には児童養護施設「若草寮」(西澤猛理事長)が建つ=東京・渋谷区

 敗戦の混乱下、「幡ヶ谷女子学園」は母子寮ではなく、売春防止法に関連する婦人保護施設(定員30人)として出発した。説明がいる。

 

 公娼制度は「デモクラシーの理想に反する」とGHQ(連合国軍総司令部)は1946(昭和21)年1月、廃止方針を示した。日本占領5カ月後だ。しかし私娼は増えるばかり。女性に仕事はなく、食べていけないのだから、半ば追い込まれた道でもあった。

 

 政府は対応を急ぐ。当時の言い方に従えば、「闇の女」あるいは「転落寸前」の「特殊婦人」を「婦人福祉施設」に集め、「保護更生」を図る−未然の「転落防止」策である。対象は母子だったり、年齢も幅広かった。

 

 幡ヶ谷女子学園には比較的若い女性が多かったという。戦争や結核で家族を失い、性病にかかって自殺未遂−同学園理事長で全国婦人保護施設連合会事務局長だった、わかの孫の山田弥平治さん(84)の一文には、捨て鉢になった女性たちの悲しい姿が見てとれる(「わかくさ会25周年記念誌」、1999年)。

 

 その中で職員は生活習慣や編み物、裁縫などを指導、園庭でともにカボチャなどを育てていった。米国で若いわかをよみがえらせたシェルター「キャメロン・ハウス」の光景と重ならないでもない。

 

 このころ、わかは理事会や利用者の結婚祝いなどで学園へ来るくらいで、家裁調停委員のほか目立った公的活動はしていない。ひとつ、世間の話題をさらったことがある。

 

 夫の不貞を理由に、妻が愛人をあやめる事件が1949年に2件発生。わかは一件の特別弁護人として東京地裁法廷に立ち、「正当防衛」と援護(50年2月)、もう一件で示された同情判決(懲役3年、執行猶予4年)は夫婦間の性モラルに一石を投じた。

 

 「母を護るの会」の看板が52年に「婦人福祉会」となった後も、理事長職にあった(74年「わかくさ会」に変更)。足が弱り、写経など静かな時を自宅で送っていた1957年9月、心筋こうそくで眠るように旅立った(享年77歳)。「買春」側をとがめず責めを女性に科し、「ザル法だ」(朝日新聞57年4月21日朝刊)とわかも残念がった売春防止法の施行から5カ月後であった。

 

 母性や母子の保護を訴え、明治、大正、昭和の3代を生きた山田わか。母性研究はなお活発だが、「女性の苦しみは未解決」と東京・練馬区にある婦人保護施設「いずみ寮」(定員40人)の施設長で全国婦人保護施設等連絡協議会の横田千代子会長(71)はいう。同会は全国婦人保護施設連合会の継承組織だ。

 

 売春防止法に基づき、中長期的に支援する公的な婦人保護施設は全国にいま49カ所。利用者は年々減っている。「でも学生の風俗バイトなど性的搾取は一層見えにくく、壮絶な被害が増えています。家庭内の性暴力、乳幼児まで巻き込む虐待も後を絶ちません。民間の緊急救援センターは全国に広がり始めていますが、新たな法律が必要です」(横田会長)。

 

 「女は未来を創造するために子供を育てる」(「社会に額づく女」、1920年)。こう述べるわかの母性論に限界はあろう。しかし〝性の解放〟が進む現代、女性だけでなく男性をも巻き込んだ新たなかたちの保護論争を、わかが生きていれば、支援するのではないだろうか。 (敬称略、おわり)

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