渋沢栄一㊦  教育、社会事業への志

2014年0908 福祉新聞編集部
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栄一が創業した富岡製糸場
栄一が創業した富岡製糸場

 渋沢栄一はその後、大隈重信に請われ、1869(明治2)年10月、大蔵省に出仕。ときに大隈重信は大蔵大輔、伊藤博文は大蔵少輔、渋沢栄一は租税の正。

 

 1871年、大久保利通が大蔵卿、井上馨が大蔵大輔、渋沢栄一が大蔵大丞。

 

 1872年10月、官営の富岡製糸場(群馬県富岡市富岡1−1)を創業。尾髙新五郎(妻千代の兄、論語の師)が責任者に就任。指導者としてフランス人のブリューナを雇う。製糸場には400人の女性が採用され、新五郎の娘もその中にいた。この女性たちは全国各地の製糸業の指導者として派遣された。

 

 1872年、大久保と井上、渋沢(少輔事務取扱)が対立。栄一は井上とともに大蔵省を辞任。33歳であった。

 

 1873年、日本初の銀行である第一国立銀行を設立。これを手始めに栄一は、資金を拠出して利益を株主に還元する合本主義により500を超える会社を育てた。その範囲は銀行、保険、海運、造船、通信、製糸、製糖、ビール、鉄鋼、化学、電気、ガス、セメント、倉庫、ホテルなどすべての分野に及ぶ。第一銀行のほか、王子製紙、渋沢倉庫、秩父セメント、帝国ホテルなどは栄一が直接、関与したものである。

 

 岩崎、三井、大倉、安田などと渋沢が異なるのは、財閥をつくらなかったことである。そこには若き日に尾髙新五郎から受けた論語教育の影響があった。

 

 栄一は企業活動とともに教育と社会事業に精力を傾け、1875(明治8)年、商法講習所(一橋大学)、1886(明治19)年、東京女学館、1901(明治34)年、日本女子大学校、1917(大正6)年には理化学研究所の創設にかかわった。

 

 社会事業では1908(明治41)年、中央慈善協会(全国社会福祉協議会)の設立、日本赤十字社、東京養育院、聖路加病院、癌研究所、滝乃川学園の設立に尽力した。中でも東京養育院の院長は1878(明治11)年、38歳から、1931(昭和6)年、91歳で亡くなるまで53年間勤めあげた。

 

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