南町奉行の出世頭 大岡越前守
2014年09月29日 福祉新聞編集部
江戸町奉行所は幕府設立以前からの就任記録があって、初代は天野三郎兵衛、四代は1590(天正18)年、板倉四郎衛門となっている。当初は1カ所であったが、1604(慶長9)年から南、北に分れた。これは地域を区分したものではなく、月番で業務を分担したことによる。1702(元禄15)年には中町奉行所が設けられるが、17年間で閉鎖された。
1717(享保2)年以降は南北奉行所体制となり幕末まで続いた。
町奉行所とは、現在でいえば都庁と警視庁、裁判所を兼ねたもので、奉行は旗本の大身が就任する最高位の三千石(3億円)の役職であった。
奉行所にはおのおの、与力25騎、同心120人が配属されていたが、ほとん ど世襲であった。筆頭与力は年番制で、与力、同心の指揮、予算管理、人事をつかさどった。係りは裁判、物価監視、商業の統制、治安、判例、赦免などに分かれていた。
奉行は午前10時に登城。老中の登城を待ち、指示を受ける。他の同僚との打ち合わせをし、用事が終われば奉行所に帰った。午後は決済や裁判を行った。奉行が外出する際は、長棒駕籠を用い、26人ほどの供を従えた。火事場などでは槍を二本立てることが許されたが、これは10万石大名の格式であった。
南町奉行所はJR有楽町駅の中央口付近にあった。地下入り口の周囲に、この地から出土した石垣が展示されており、往時を示す金属板が設置されている(写真)。
南町奉行の出世頭は大岡越前守忠相である。1717(享保2)年に就任した。1736(元文元)年に寺社奉行(大名の役職)に就くまで19年間、その職にあった。南北奉行で唯一、大名に昇進した。
在任中、八代将軍吉宗に重用され、享保改革に功績があった。南北奉行所制度を定着させ、1718(享保3)年には町火消いろは47組を整備。瓦屋根を奨励して防火対策を推進する。小石川療養所を設置して貧民に医療を提供するなど民生行政に実績を上げた。
西大平藩(三河1万石)の上屋敷は日比谷公園の霞門の向かい側の角地、現在の日本弁護士会館の所在地にあった。
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