北、南町奉行を唯一歴任 遠山左衛門尉

2014年1006 福祉新聞編集部
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北町奉行所跡の石板
北町奉行所跡の石板

 江戸時代も末期1840(天保11)年、遠山金四郎こと左衛門尉景元が北町奉行に就任する。

 

 ほとんど同時期1841年、鳥居耀蔵こと甲斐守忠耀が南町奉行に就任する。鳥居は、天保の改革を主導した水野忠邦の側近として辣腕を振るう。過激な取り締まりと倹約令で庶民は耀甲斐とあだ名し、恐れた。

 

 蛮社の獄では、渡辺崋山や髙野長英を弾圧。南町奉行、矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任に就く。矢部家は改易、定謙は桑名藩に幽閉。本人は食を断って自死した。遠山がこれらに批判的と知ると水野とはかり大目付(地位は高い)に左遷した。さらに洋学者の江川太郎左衛門と対立、髙島秋帆らを無実の罪で陥れた。

 

 改革末期の1843(天保14)年、水野が上知令(江戸、大坂の10里四方を幕府の直轄地に召し上げる)を断行するや、御三家をはじめ大名、旗本の猛反発を受ける。すると鳥居は水野を裏切り、老中、土井利位に水野が不利になる機密情報を流す。ために水野は失脚。耀蔵は地位を保った。

 

 ところが半年後の1844(弘化元)年、外交問題が紛糾し、水野が老中に復帰、将軍、家慶から幕政を委ねられる。側近の渋川、後藤の裏切りもあって鳥居の不正が暴かれ、翌年、全財産没収の上、丸亀藩預かりとなった。水野も、老中を罷免され蟄居。水野家は山形に転封された。

 

 一方、遠山は1845(弘化2)年、南町奉行に復帰、1852(嘉永5)年まで勤めた。100人以上の歴代奉行のうち南北両奉行を勤めたのは遠山のみである。

 

 北町奉行所は呉服橋門内にあった。現在の東京駅八重洲口の北口、丸の内トラストタワーの辺りである。建物の裏に回ると駅構内への通路があり、ドアを開けると北町奉行所跡の石板がある。

 

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