江戸城の門① 大名、幕閣の登城口 本丸に通じる大手門

2014年1110 福祉新聞編集部
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大手門。後ろの渡り櫓は修理中。手前が高麗門
大手門。後ろの渡り櫓は修理中。手前が高麗門

 江戸城の内濠に設けられた門は12ほどある。多くは枡形門(ますがたもん)だったが、おのおの変遷があった。竹橋門、和田倉門、馬場先門は門の原形をとどめていない。

 

 正門は大手門で、戦災で焼失。1965(昭和40)年に復元された。ここから大名や幕府の官僚が登城した。門の入り口で供の者は待機。原則として主人が一人で本丸に入った。

 

 北西の方向に天守閣の土台が残っている。天守閣は明暦の大火=1657(明暦3)年=で、本丸、二の丸、三の丸御殿とともに焼失。再建が試みられたが、泰平の世に天守閣は不要とされ、加賀藩の普請による土台だけが残された。その後、本丸、二の丸、三の丸は再建されたが、1844(弘化元)年、本丸御殿、大奥を焼失。翌年には再建された。

 

 御殿は南北に細長く、表(政庁)、中奥(官邸)、大奥(正室、側室)の順に並んでおり、二の丸、西の丸御殿も同じ並びであった。本丸御殿の総建坪は1万1000坪で、その6割を大奥が占めている。

 

 1859(安政6)年、再び本丸が焼失。すぐに再建された。1863(文久3)年には西の丸が焼失。あろうことかこの年の末、本丸、二の丸が炎上。時の14代将軍家茂は城外ともいえる、清水邸をへて田安邸に移った。幕府は翌年、西の丸に仮御殿を建てたが、本丸、二の丸御殿は再建できなかった。

 

 明治政府には1868(慶応4)年に、仮御殿を引き渡した。

 

 それ以降、西の丸が皇居とされた。大手門の右隣は平川門で不浄門と言われていた。これも枡形門で、城内で犯罪を犯したり死去した場合は、この門が使われた。浅野内匠頭が刃傷(にんじょう)に及んで田村右京太夫邸に送られた時も、この門を通った。

 

 竹橋(一橋)、清水、田安門は、いずれも徳川三卿が守備すべき門で、門前に屋敷があった。清水、田安門はそれぞれ1636(寛永13)年、1658(万治元)年に建てられたもので国の重要文化財である。北桔橋門(きたはねばしもん)は北の丸と本丸をつなぐ橋で大奥から直接、外部に通じる重要な門である。深い濠をうがち、桔橋(はねばし)を架けていた。現在の橋はコンクリート製で欄干は鋼鉄製。橋をはね上げる滑車の金具が残されている。橋を渡れば天守台である。

 

 半蔵門は大手門に対して江戸城の裏門にあたる。伊賀忍者の棟梁、服部半蔵が部下と組屋敷を構え、甲州街道を守備していたので、この名がある。本来の門は太平洋戦争で焼失。和田倉門の高麗門を移したものである。

 

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