江戸城の門② 桜田門外の変 井伊大老を浪士が襲撃

2014年1117 福祉新聞編集部
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桜田門

   半蔵門方面の高台から眺める桜田門は美しい。正式には外桜田門という。1860(安政7)年3月3日、ここで桜田門外の変が起きる。ときの大老、井伊直弼が水戸藩を中心とした浪士に襲われ命を落とした。

 

 背景には勅許を得ずに日米修好通商条約(1858年)を締結したこと、将軍後継に紀州藩の徳川慶福(家茂)を決め、一橋(水戸)派を排除したこと。さらに、これらに反対する水戸藩、尾張藩を含む有力大名、摂関家など100名以上を断罪したことなどがあった。安政の大獄(安政5・6年)という。

 

 3月3日早朝、品川妓楼の土蔵相模をばらばらに出立した浪士たちは芝、愛宕山に集合。雪の降り積もる中を三々五々、桜田門に向かう。登城時刻の1時間前、9時に到着。大名行列を見物する風情で人混みの中に紛れる。武鑑(大名の官位、系譜、家紋などを記載した)を手にして念を入れて見物を装う。

 

 井伊直弼の行列は井伊邸(現憲政記念館)を出て、桜田門から城内に入り登城する予定だった。総勢60名の隊列である。先頭が門に架かる橋の手前まで来た時、「直訴」と叫んで、森五六郎(使番)が先頭の武士に斬り掛かる。警護の武士が慌てて駆けつけると駕籠の左右に隙が生じた。一発の銃声を合図に17名が一斉に駕籠に殺到する。銃弾は直弼の腰部に命中。動きがとれなくなった。驚いた駕籠かき、護衛の多くも駕籠を放置して遁走した。そこに稲田重蔵が突き刺した刀が駕籠の中の直弼に届き、さらに傷を深くした。

 

 彦根一の使い手、河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ柄袋を外して稲田を斬り捨て駕籠を守った。若手の剣豪永田太郎兵衛も奮戦。襲撃者を撃退したが、銃創を受ける。河西も倒れ駕籠の防備が失せてしまった。そこに襲撃者は次々と刀を突き立てる。有村次左衛門(薩摩浪士)が駕籠の引き戸を開けて瀕死の直弼の首をはね、引き揚げを下知、和田倉門方面に内濠づたいに逃走する。有村は追手に背後から斬られ、大手門近くの遠藤但馬守邸前で割腹。

 

 直弼の首は遠藤家から井伊家に返された。18名中5名が現場で自害あるいは殺害され、8名が大手門近くの大名屋敷に自訴して死罪、残りの5名は逃亡に成功した。うち3名は後に捕縛されて死罪。2名だけが明治まで生き延びた。

 

 たった15分の出来事であったが、一瞬にして幕府の権威は地に落ちた。計画を立案した金子孫二郎(水戸藩士)は四日市で捕われ死罪、髙橋多一郎(水戸藩士)は大坂で追手に追われ割腹自殺した。  (松) 参考=「東京時代MAP〜大江戸編」光村推古書院

 

141117_3s界隈地図

 

 

 

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