西の丸に架かる二つの橋と坂下門外の変

2015年0115 福祉新聞編集部
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 皇居となった西の丸の仮御殿は1873(明治6)年に火災で消失するが、明治政府は威信にかけて再建を果たす。

 

 この西の丸に架かる橋が二つある。西の丸が皇居となったためにこれが皇居の正門となった。手前が正門石橋、奥が正門鉄橋である。二重橋の呼称は橋が二つあるからではない。二重橋は奥にある正門鉄橋を指す。

 

 江戸時代は、これが木橋であった。濠が深くて上下二段の橋脚の上に橋桁を渡したのでこの呼称がある。また、1887(明治20)年に建造された正門石橋(眼鏡橋)を二重橋と誤解している向きもあるが、これも過ち。鉄橋の右手の奥には優雅な姿の伏見櫓が見える。伏見城を廃する時に移築したものである。

 

 宮内庁には二重橋の右、坂下門から入る。坂下門はもとは西の丸の通用口で、枡形門であったが高麗門をはずし、渡り櫓を90度移動して正面に据えた。

 

坂下門外の変起きる

 

 桜田門外の変から2年後、老中安藤信正を水戸浪士が襲った。坂下門外の変である。

 

 信正は井伊直弼の開国路線を継承。幕府の権威を高めるため公武合体を推進する。孝明天皇の異母妹、皇女和宮の降嫁を策し、将軍、家茂との婚姻を実現させた。これらに反発した、水戸藩の西丸帯刀と長州藩の桂小五郎は1860(安政7)年、水長の盟約を結び信正の暗殺を企てる。

 

 しかし、長州藩は長井雅楽の主張によって公武合体に傾いた。長州は計画の延期を提案するが、機を逸することを恐れた水戸側は宇都宮の儒学者、大橋訥庵と提携して事を運ぼうとする。これが露見して大橋らは捕縛される。

 

 ついに水戸浪士ら6名は1862(文久2)年1月15日、諸大名が将軍に拝謁する上元の式日に襲撃を決行する。

 

 当日の朝、安藤信正の行列が坂下門に差しかかると河本杜太郎が行列の前に飛出して駕篭を銃撃。これを合図に5名が斬り込んだ。混乱のなか平山兵介が駕篭に刀を突き刺すとこれが信正の背中に達し、軽傷を負う。信正は坂下門内に逃げ込み難を逃れた。

 

 桜田門外の変以降、老中の警備は厳重を極め、水戸浪士はことごとく斬死する。

 

 

 

 

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