太田道灌の桔梗紋
2015年02月25日 福祉新聞編集部
坂下門と大手門の間に桔梗門がある。正式には内桜田門という。この門をくぐると皇宮警察の本部(旧枢密院)がある。門の右側の石垣の角に2層の巽櫓を配している。左には松林のなかに3層の富士見櫓が見える。
桔梗門のいわれは江戸城の最初の築城主、太田道灌の家紋、桔梗が入った瓦が残されていたことから、この名がある。道灌は1456(康正2)年に築城を始めたといわれている。当時は日比谷入江が内陸まで迫っており、城壁が入江に突き出す形であった。
江戸城には20基ほどの櫓があったが、現存しているのは伏見櫓、富士見櫓、巽櫓の3基だけである。
内濠は桜田濠から日比谷濠を経て馬場先濠につながり桔梗濠に合流する。日比谷濠が直角に右に曲った角に日比谷門(見附)があった。これは大名小路と呼ばれた内濠と外濠に囲まれた曲輪から馬場先門、和田倉門を経て本丸、西の丸に至る門である。
日比谷門は高麗門、渡り櫓を備えた枡形門であった。門内には土佐・山内、阿波・蜂須賀、古河・土井、苗木・遠山家の上屋敷があった。
日比谷門跡は交差点の公園内に標識がある。江戸築城時、この辺は江戸湾の入江で海苔の養殖が盛んであった。海苔の胞子を付着させる枝付きの笹竹を篊と言った。
これが転じて日比谷となった。この篊を利用して内濠を掘って出た残土で、埋め立てて陸地を拡げて行った。その結果、出来上がったのが日本橋、銀座などの下町である。
馬場先門は内濠を渡って西の丸下に通じる門で、古くは不開門と呼ばれていた。1629(寛永6)年に造営された。門内で朝鮮使節の馬術を上覧したことにより、この名称がある。ここからは直接西の丸正門に通じる。
日露戦争の勝利を祝う提灯行列が、この門にはばまれ多数の死者が出たことにより、1906(明治39)年、この門は撤去された。現在は各国大使の信任奉呈式に向かう馬車がこの橋を渡って皇居に入る。
1606(慶長11)年から天下晋請と称して諸大名を動員して江戸城の大拡張が始まる。その一環として、和田倉門は1620(元和6)年、伊達、上杉、佐竹など東国大名に命じて造営したものである。その折の地図には和田倉といわれる倉がしるされている。
わだは海の意味で、海辺の倉の意である。高麗門、渡り櫓は1923(大正12)年の関東大震災で崩壊し、撤去され、高麗門だけは戦後組み直されて半蔵門に移設された。和田倉門内には会津・松平家の上屋敷が明治まで存在していた。