官庁街の成立① 大名屋敷を各省庁に

2015年0312 福祉新聞編集部
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法務省(旧司法省)の外観。戦災のため一部を残して焼失したが、平成2年に明治28年竣工当時の姿に復原した

 「徒ずらに名をのみ、とめて、あずま路の霞が関も、春ぞ暮れぬる」と1364(貞治3)年の新拾遺和歌集にある。ここに言う霞が関は奥州街道の関所であることは間違いないが、現在の千代田区霞が関か、新宿区霞岳町か狭山市広瀬か、あるいは多摩市関戸であるか、諸説あり判然としない。14世紀の武蔵野は原野であったろうから、いまさら特定は出来ない。

 

 明治新政府は京都から東京に遷都して、最初に腐心したのは省庁を設置することだった。幸いなことに東京には住人が国元に引き揚げたために空屋同然となっていた大名屋敷が多数放置されていた。

 

 これに目をつけた新政府はまず江戸城の大手門付近にあった大名屋敷を省庁舎に転用した。当時、大手門付近は大名小路と呼ばれ、親藩、御家門、譜代の大名屋敷が軒を連ねていた。

 

 政府の要である内務省、大蔵省は姫路・酒井藩邸跡を、一橋・徳川邸跡は陸軍軍馬局に、竹橋門前は文部省に、外濠を隔てて向かい側に学習院、東京大学、東京外国語学校を配した。

 

 農商務省は内務省の向かいの小倉・小笠原藩邸跡に、会計検査院は川越・松平藩邸跡に置いた。

 

 鍛冶橋の外濠沿いの内側には司法省、大審院、東京裁判所、警視庁が置かれ、それぞれ沼田・土岐、岩村・松平、岡山・池田、鳥取・池田、沼津・水野などの藩邸跡が充てられた。いずれも現在の東京駅の構内に並んでいたことになる。

 

 一方、霞が関には1881(明治14)年から、外務省が福岡・黒田藩邸跡に置かれ、1878(明治11)年から1879(明治12)年にかけて陸軍省と参謀本部が彦根・井伊、田原・三宅藩邸跡に設置された。

 

 また、溜池にあった佐賀・鍋島藩邸跡には1881(明治14)年に工部省が、外濠をまたいで延岡・内藤藩邸跡には工部大学校が置かれた。

 

 逓信省は1885(明治18)年に木挽町の中津・奥平藩邸跡で発足し、関東大震災後の1933(昭和8)年、狸穴の貯金局跡に移転。戦後の1969(昭和44)年、念願の霞が関進出を果たした。

 

 海軍省は1872(明治5)年、兵部省から陸軍省と海軍省に分別され築地・浜離宮の右隣り、尾張・徳川家蔵屋敷跡(現在の卸売市場、朝日新聞、国立がんセンター)に置かれた。次いで1894(明治27)年に中村・相馬、山形・水野邸跡の霞が関、現在の農水省のある場所に移転した。のちに海軍兵学校は江田島に移転するが、海軍省の跡地には経理学校、軍医学校、海軍大学校などが終戦時まで残された。

 

 仮の貴族院、衆議院が1890(明治23)年、内幸町の経産省がある松代・真田藩邸跡に置かれ、1895(明治28)年には大手町から司法省、大審院が米沢・上杉藩邸跡に移転。

 

 

 

 

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