江戸の消防㊤ 歌川広重の生誕地

2015年0414 福祉新聞編集部
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明治生命会館(手前)と明治安田生命ビル
明治生命会館(手前)と明治安田生命ビル

 歌川広重、本名、安藤鉄蔵または重右衛門は1797(寛政9)年、江戸は八代洲(八重洲)河岸の定火消し屋敷(現・明治生命館)で生まれた。

 

 父は定火消し同心の安藤源右衛門。幼くして浮世絵名人と呼ばれた初代、歌川豊国の門をたたくが断わられ、歌川豊広に入門する。師匠の広と本人重を合わせて広重を名乗る。

 

 1809(文化6)年、13歳で父の同心職を継ぐが1823(文政6)年、27歳の折、祖父方の嫡男、仲次郎に家督を譲り、後見となる。以後、画業に専念した。36歳の時、縁あって公用で京都に登り、翌年、東海道五十三次を発表。奇抜な構図を駆使して風景画家として名声を確立する。文化、文政期を代表する浮世絵師としてヨーロッパの印象派、ゴッホなどに歌麿、北斎、写楽などとともに強い影響を与えた。

 

 八代洲の火消屋敷

 

 江戸の火消しには、大名火消し、定火消し、町火消しの3種類があった。大名火消しは最も古く、1629(寛永6)年に始まった。大名16家を4組に分けて老中の指揮により臨時的に招集し、消火に当たらせたもの。しかし、機動性に欠ける欠点があった。

 

 そこで幕府は、1657(明暦3)年の大火後、4000石以上の旗本4家に火消し屋敷を与え常時警戒する体制をとった。これを定火消しという。1707(宝永4)年には4家を10家に増やし、駿河台、小川町、四谷門内、八代洲河岸、御茶の水、半蔵門外、赤坂門外、飯田橋、市谷左内坂、赤坂溜池に火消し屋敷を置いた。おのおの、編成は与力6騎、同心30人、臥煙(火消し人足)100~200人である。

 

 臥煙は全身に刺青を入れ、はっぴを粋に着こなし、町人からは羨望の的となった。臥煙部屋では丸太を枕に15人ほどが単位で就寝する。緊急の場合は寝ずの番が丸太をたたいて起床させ出動した。当時の消火道具は木製ポンプの竜吐水ぐらいで効果は期待できない。もっぱら破壊消火によった。いまに残る広小路は延焼を防ぐために設けられたものである。

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