江戸の消防㊦ 幕末、町火消しの隆盛

2015年0422 福祉新聞編集部
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消防博物館に展示されている「を」組のまとい

 1657(明暦3)年正月18~19日の大火は江戸最大のものであった。火元は本郷の本妙寺。折からの北西風にあおられ、火勢は外濠の内側と深川の一帯、江戸の街の6割を灰じんに帰した。江戸城の天守、本丸、二の丸を全焼。大名屋敷500カ所、旗本屋敷770カ所、寺社350カ所、橋60カ所、町屋400カ所を焼き尽くした。振り袖火事と呼ばれるこの火事は、本妙寺の大施餓鬼に亡き娘の供養に燃やした振り袖が舞い上がり本堂の屋根に着火したといわれる。焼死者10万人を超える大惨事に至った。

 

 この大火から63年後、享保の改革を担った町奉行、大岡忠相によって1718(享保3)年に町火消しが創設される。1720(享保5)年には、いろは48組、深川16組が組織された。総勢1万人分の費用は町負担とされた。

 

 編成は頭取、纒持ち、梯子持ち、道具持ち、平人(鳶口)、工手人足(火事場には出動しない)である。火事のとき、鳶など火消し人足は町内の自身番に集結。頭取の指揮のもと現場に駆けつけた。装束は刺子長半てんに猫頭巾を着用し、水をかぶって消火にあたった。

 

 江戸の街が参勤交代などで巨大化し、人口が100万人を超える世界最大の都市にまで発展すると消防能力が追いつかなくなる。機能が徐々に定火消しから、町火消しに委ねられることになる。

 

 1747(延享4)年、江戸城二の丸火事では、初めて町火消しが城内に入り、消火にあたった。幕末には定火消し屋敷はついに1カ所になって消火は完全に町火消しに依存することとなった。

 

鳶頭・新門辰五郎

 

 新門辰五郎は町火消しを象徴する存在である。1800(寛政12)年江戸に生まれ、浅草寺の塔頭、伝法院新門の門番であったので新門を名乗る。

 

 浅草十番組「を」組頭であった町田仁右衛門に身を寄せ、頭角を現す。娘をもらい養子となり「を」組を継承する。

 

 一橋慶喜が京都の禁裏守護を命ぜられると、ともに上京、二条城の警備にあたる。徳川慶喜が謹慎中は、寛永寺の警護。水戸、駿府に移住すると同行し警護にあたった。1875(明治8)年75歳で没する。

 

 ちなみに江戸の三大大火は、明暦の大火、目黒行人坂の大火=1772(明和9)年、丙寅の大火(高輪車町)=1806(文化3)年である。

 

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