社会福祉法人風土記<5>信濃福祉施設協会 上 源流は更生保護事業

2015年0827 福祉新聞編集部
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初代理事長・西村国晴

 全国から訪れる信者、観光客でにぎわう長野市の善光寺。そこから車で約2~3分、静かな文教・住宅地の一角に救護施設「旭寮」(定員80人)はある。本部をここに置く社会福祉法人「信濃福祉施設協会」が唯一経営する、生活保護法に基づく暮らしの場だ。

 

 3棟の寮と体育館を持つ。寮の利用者87人の平均年齢は62・2歳。知的、身体、精神の障害者が9割を占める。

 

救護施設「旭寮」

救護施設「旭寮」

左から北棟、西棟、向かいが体育館

左から北棟、西棟、向かいが体育館

 

 「2年後に同じ町内の別の所へ移る計画です。事業を広げ、サービスのレベルをもっと上げたい」。施設長の西村行弘さん(51)はこれからの地域連携に意欲を燃やす。行弘さんは2代目である法人理事長、西村晴彦さん(78)の長男。IT企業を脱サラし、5年前に寮の責任者となった。

 

 実は隣接地にもう一つの施設が存在していることは、まさに知る人ぞ知る。刑期を終えて出所した人(刑余者)の社会復帰を支えるため県内に2カ所ある更生保護施設の一つ「裾花寮」だ。ここはまた、法人の始まりでもある。

 

 話を明治時代へ戻す。

 

静岡に出獄人保護会社

 

 ある男性が刑期を終え、村へ帰った。妻は再婚したらしく、子どもも生まれ、幸福のようだ。それを乱すことはせず、村の親戚へ一夜の宿を頼んだものの、「お前のようなものは…」と追い返された。金もない。警察も助けてくれなかった。出所の際、「二度と悪事に手を染めない」との約束を思い返し、池へ身を投げ、この世に別れを告げた。

 

 出所者を温かく迎えた家族を歌う「幸せの黄色いリボン」は、どこにもなかったというわけだ。

 

 その話を聞いた静岡県の実業家、金原明善=1832(天保3)年~1923(大正12)年=が日本で最初といわれる更生保護施設「出獄人保護会社」を静岡県安倍郡安東村(現静岡市)に作ったのは1888(明治21)年のことである。宿を提供し、手に職をつけ、再犯を予防していく。民間の篤志家の寄付や仏教団体、僧侶たち、一部のキリスト者らの活動がそれを支えた。いまの保護観察制度の走りと言って良いだろう。

 

 事情は長野県でも似たようなものであった。1909(明治42)年に「信濃福寿園」、1920(大正9)年に「松本市助成協会」が設立される。大正デモクラシーから軍国主義の響きが高まっていく昭和の初めにかけ、思想犯として収容される人が増えていく。この対応として「敬和会」「信濃昭和会」が設立される。1939(昭和14)年に司法保護事業法が施行されるが、戦時色が強まるにつれて事業は有名無実化。「一肌脱いでくれないか」。再興に向けて終戦前年の1944(昭和19)年に産声を上げた財団法人「長野司法厚生協会」(現・更生保護法人)を任されたのが、晴彦さんの父・西村国晴(1900~78)であった。

 

利用者が食べていくため

 

 国晴は松本藩の小作地奉行の家に生まれている。司法省(現・法務省)の役人になり、戦時中は近衛師団に配属され、宮中や皇族警護の任に就いていたという。請われて長野司法厚生協会を立ち上げたものの、間もなく公職追放に。ただ、司法省の同僚らの計らいもあり、すぐ協会理事長へ復職している。

 

 まず終戦4カ月後の1945年12月、「信濃福寿園」「敬和会」「信濃昭和会」を協会に吸収合併し、翌年には経営認可を得て、裾花寮(定員60名)として船出。社会福祉法人「信濃福祉施設協会」へと枝分かれするのは後日。当時は、「彼らが食っていけるためには何でもする」。これが国晴の口ぐせであった。

 

 主に長野刑務所の出所者を保護した。「大部分は累犯者で、多くは県外出身である。再び誘惑の多い大都市に戻らぬよう適職の斡旋に力を入れ、生活が安定次第、妻帯させて、長野市周辺で家庭を持たせることに重点」(『長野司法厚生協会の概要』から)を置いた。

 

 しかし、戦後の混乱期、虞犯・非行少年への対応など仕事は重くなるばかりであった。

 

【荻原芳明】

 

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