社会福祉法人風土記<26>慈愛園 中 人を育み、制度へつなぐ

2017年0824 福祉新聞編集部
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昭和初めごろの慈愛園のクロンク幼稚園と園児たち

 〝Gathering Up the  Fragments〟--慈愛園をつくった米国人宣教師モード・パウラス(1889~1980年)の自著『愛と福祉のはざまに』の原題だ。「散らされた人々を集め、ひとりも失われないようにする」。彼女の言葉である。日本語版に園田直(1913~84年)、橋本龍太郎(1937~2006年)の2人の厚生大臣経験者が感謝の序文を寄せた。

 

 大正末から昭和の初め、慈愛園には20人前後の子が暮らした。福岡県大牟田の教会を通して託された生後間もない赤ちゃん、そして成績の良い子も。モードは男子は九州学院へ、女子は九州女学院(現ルーテル学院中学・高校)へ積極的に進ませている(ともに熊本市内にあるルター派の学校で現在は男女共学)。

 

 1935(昭和10)年には初めて、東京の武蔵野音楽学校(現・武蔵野音大)、実践女子専門学校(現・実践女子大)へ女性の園生2人を送り出した。

 

良さを見つける

 

 が、あるとき、少年がポツリと言った。「先生、神様は、ぼくに、良い頭をくださらなかったんですね」。

 

 モードはこのとき、どの子も大切に扱うにはその子の良さを見つけることが重要なのだと、改めて気付かされたと記している。

 

 「いたずらっ子には、『お尻パチパチよ』と面白い日本語で怒ってました。きびしいけど、思いやりのある人でした」。園の一角にある軽費老人ホーム「ケアハウス」(広田順一施設長、定員40人)で余生を送る女性(81)は思い出す。母親が子供ホームの保母だった関係で幼稚園から高校生まで園で成長した。1948年、園が熊本県荒尾市に開いた児童養護施設「シオン園」で一時働いたという。

 

広田順一・ケアハウス施設長

 軍靴の響きが迫りつつあった1934年。モードが探し求め、その後の発展を担う人物を迎えた。前回も触れた第4代慈愛園長、潮谷総一郎(1913~2001年)だ。彼は仕事のかたわら、治療を受けるようハンセン病患者の家々を説き歩き、列車で岡山県の長島愛生園へ患者を同行、入院させもした。

 

 アメリカ人にもかかわらず、モードは第3回国際社会事業会議(1936年)へ日本代表団の一人として渡英している。しかし、時代の暗雲に飲み込まれ、日米開戦(1941年12月)の2カ月前、やむなく帰米。総一郎も南方戦線へ運転手として召集されていく。

 

 モードに代わり全盲の石松量蔵牧師(1888~1974年)が園長職を預かった。日本福音ルーテル健軍教会(熊本市)を司る「世故にたけた苦労人」(内田守著『熊本縣社会事業史稿』)と紹介されている。子どもやお年寄り計約60人の糊口ここうを国や県の補助金、教会資産の整理などでしのいだが、熊本空襲(1945年7月10日)で乳児ホーム、職員住宅を全焼。一方、太平洋の彼方ではモードが2人の在留邦人を自宅に引き取って世話をした。多難な時であった。

 

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