社会福祉法人風土記<32>日向更生センター 上 創設者は戦後福祉の生みの親

2018年0118 福祉新聞編集部
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センター全景。特別養護老人ホーム「皇寿園」と養護老人ホーム「明星園」

 宮崎市の阿波岐ケ原という日向灘に面し、祝詞に「日向の橘の小戸」とある土地に、1969(昭和44)年、社会福祉法人日向更生センター特別養護老人ホーム「皇寿園」(指定介護老人福祉施設・定員50人のち100人)開設。88年、宮崎市の委託により養護老人ホーム「明星園」(定員50人)の運営を開始し、2000年には市から無償譲渡を受ける。04年、「皇寿園」「明星園」の建て替え完成。1993年には大淀川を挟んだ対岸の清武町(2010年、宮崎市に合併)に町の委託により宮崎市養護老人ホーム「清流園」(定員50人)の運営を開始し現在に至る。

 

 県内第1号の特養「皇寿園」は、黒木利克初代理事長(1913〜78)のある思いから生まれたことが、児湯郡高鍋町出身で日本初の本格的な孤児院を創設し、「児童福祉の父」と言われた石井十次(1865〜1914)のことも紹介する自著『青年の政治教室』(1970年刊)の冒頭に書かれている。

 

 〈郷里の老人クラブのお年寄りの人たちにたびたび接しているうちに、いわゆる中気(中風)で半身不随になっている人たちの機能回復訓練施設が切実に必要なことを痛感〉、その後、曲折を経ながらも宮崎市から阿波岐ケ原の2500坪が提供され、財団法人の社会福祉法人化と「皇寿園」設置の手続き一切は宮崎県社会福祉協議会がしてくれたとある。

 

黒木茂夫理事長

 

 

 しかし、当初は財団法人として温泉熱を利用した老人身体障害者の援護施設を西諸県郡高原町に建設予定だったが、1968年の「えびの地震」や数年前の新燃岳の爆発(2017年10月に再び噴火活動活発化)で取り止めたと、5代目の黒木茂夫現理事長(67)提供の68年付の財団法人理事会議事録に記録されていた。その後すぐに前述のように社会福祉法人に形態を整え、「皇寿園」が開設されたのである。

 

 ところで、宮崎市の人口は、皇寿園開設年は20万2862人だったが、2016年には39万9979人になった。そのうち65歳以上は10万3300人と、人口の4人に1人になったと『宮崎市統計書2016年版』にある。それに伴い市内に高齢者福祉施設として養護老人ホーム6カ所、特別養護老人ホームは24カ所となった。

 

 

 既に『皇寿園40周年記念誌』(2009年刊)に詳しいが、法人創設者、黒木利克とはどのような人物だったのか。その足跡を追ってみたい。一言で言えば、戦後日本の社会福祉制度の生みの親である。

 

 

創設者「黒木利克胸像」
(制作・渡辺義知)

 

 1913(大正2)年、奈良時代に日向国の国府、国分寺が置かれた西都市に生まれる。旧制妻中学校(西都市)、第五高等学校(熊本市)、東京帝国大学法学部を41年卒業。当時内務省から衛生局、社会局が分離して設置された厚生省に入省。48年社会局更生課長、翌年まで米国留学。帰国後、社会局各課長を歴任し、56年初の『厚生白書』を作成。64年初代児童家庭局長。翌年には参議院議員として国政の場へ。

 

 厚生省では社会福祉事業法、共同募金会、社会福祉協議会、福祉事務所、民生委員制度など立案。60年法学博士授与。ローマ法王パウロ6世から社会福祉功績で「有星騎士団長勲章」を受章。日本では吉田茂元総理大臣に次いで2人目だった。著訳書は多数にのぼる。

 

 ここで、黒木初代理事長が、政界の三賢人の一人と言われ、英国の政治家B・デイズレーリ(1804〜81)の福祉政策にも関心を示していた灘尾弘吉元衆議院議長(5代目全国社会福祉協議会長・1899〜1994)にいかに信頼されていたかを、評伝『灘尾弘吉先生と語る』(全社協・1992年刊)から見てみたい。対談者は昭和30年代(1955〜)、梶山季之(1930〜75)らと出版社系週刊誌ブームをけん引した草柳大蔵(1924〜2002)である。

 

 1947年11月から51年まで、GHQ(連合国軍総司令部)から公職追放された灘尾は〈浪人はいいのだけど事務所がなくてね。そんなときに厚生省の政務官付の参与官だった黒木利克君の世話で、江戸橋近くの会社の一室を事務所として貸してもらった〉、〈(この時期に紹介された彫塑家の)渡辺義知さん(1889〜1963)は黒木君の紹介ですよ。この人は僕が戦後お付き合いした中でも最も尊敬する一人だ〉と。草柳はあとがきで、「陸沈の人」を初めて見たと対談を締めくくっている。孔子のこの言葉を、「世間を捨てるのも、世間と迎合するのもやさしいが、一番難しいのは世間の直中にいることだ」とも訳せば、黒木にもそのことを体現したと思わせる事実があった。

 

 〈(1954年11月頃)灘尾先生からヒロポン(覚醒剤)問題は深甚にたえない。国の予算がなくて、実施することのできないことで、実施して効果を挙げるような方法があれば案を持ってこい。実現できるよう骨を折ろうというお話しでした〉(『社会事業と霊友会』国友婦人会・1955年刊/表紙絵・渡辺義知)。当時ヒロポン経験者は200万人、それによる中毒患者は20万人と言われていた。すぐに①啓発映画制作②中毒患者の入院費の拠出が必要と提案。同時に黒木は社会福祉事業に理解と実績があった霊友会(会長・小谷喜美、青年部長・久保継成/東京都港区)に、太宰博邦厚生省児童局長(6代目全国社会福祉協議会長)らを伴って同年12月訪問。霊友会は「1955年3月の臨時理事会で、賛助金として650万円を決定」(『霊友会史年表』・2006年刊)。黒木案は実行に移され、映画制作は松竹株式会社(社長・城戸四郎)の協力で、文部省選定『悪魔の罠』完成。この映画の上映会を全国に展開する啓発運動が開始された。 

 

【髙野 進】

 

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