社会福祉法人風土記<33>神戸光有会 上 誕生の源流に幕臣・山岡鉄舟

2018年0216 福祉新聞編集部
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明治41年当時の神戸報国義会本部

 明治150年に当たる今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」。その主人公・西郷隆盛が幕末、徳川幕府を倒さんと薩長主軸の官軍総大将として江戸総攻撃に向けて東海道を東進中、静岡・駿府に単身乗り込んできた武士がいた。徳川幕府の重鎮・勝海舟の手紙を携えた幕臣・山岡鉄舟だ。

 

 幕府側は「江戸城を明け渡す」などの条件はのんだが、西郷が突きつける「将軍慶喜は備前藩に預ける」だけは幕府の忠臣・山岡が強硬に反対した。話し合いが決裂すれば江戸の町は火の海になる…。歴史を左右する一対一の息詰まる対決は、土壇場で西郷が折れた。命がけの山岡の真情が西郷の琴線を震わせたのだ。

 

 後日、西郷が述懐する。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そういう人でなければ天下の偉業は成し遂げられん」。勝海舟も鉄舟を評して「明鏡の如く、一点の私心も持たなかった」と〝最後のサムライ〟を称賛した。

 

 その山岡鉄舟が社会福祉法人「神戸光有会」(神戸市兵庫区夢野町)の源流にいた。

 

 明治維新後、西郷に乞われて明治天皇の侍従を務めた山岡は、佐幕・討幕の立場を超えて国事に殉じた人々の菩提を弔うため、東京・谷中に禅寺「全生庵」を開いたほど、慈悲を大切にした。西洋文明が奔流する大変革時代に、仏教を軸にして日本の良さを守ろうと1884(明治17)年、「明道協会」を設立。「尊王奉仏」を唱えて、社会教化運動と社会事業を始めた。

 

 その運動が全国に波及する中、東京に行って明道協会の活動に刺激を受けた熱血志士、目め加か田た栄が神戸で「兵神明道協会」を結成した。寺社の復興に尽力した目加田は外来思想を払い伝統的な精神を取り戻す運動をめざして、1890(明治23)年「神戸報国義会」を立ち上げた。「困窮する無告の民を救済する」慈善事業がまず取り組むべき活動だった。

 

 当時の神戸の町はどんな状態だったか。徳川幕府が11カ国と修好通商条約を結んだ結果、1867(慶応3)年に兵庫港(今の神戸港)が開港した。明治維新後、イギリス、アメリカ、オランダ、フランス、ドイツなどが居留地を獲得して、国際貿易港として年々拡大、やがて世界四大海運都市の一つになっていった。

 

 市制が施行された1889(明治22)年には新橋~神戸間の鉄道が開通し、人口も約14万5000人と開港時の10倍にも増えていた。明治政府の富国強兵策により工業と貿易が奨励され、港湾荷役や造船所、製鋼所、運河開削工事などで働く労働者が大量に流入してきた。

 

 産業発展の光の半面、暗い影も生じた。各地から集まった出稼ぎ労働者の生活は好不況の波に翻弄ほんろうされ、失業者の群れがあふれた。こうした状況下、「神戸報国義会」結成2年後の1892(明治25)年、貧民救済事業をスタートさせた。

 

 神戸・楠町(今の兵庫区)に親の保護に恵まれない子どもたちを収容・養育する育児院と、貧困で資力のない幼老病者を診察・施薬する施療院を設けた。今の神戸光有会につながる福祉事業の第一歩だ。

 

 さらに行路病者、遺棄児・遺児、母子、刑余者、水害被害者、東北地方の大凶作被災児らを神戸市など行政側からの要請で引き受けた。

 

 「福祉」という概念がなかった当時から、今でいう「救護施設」「養護施設」「老人ホーム」「母子寮」「病院」の五つの異なる施設を持つに至った。当時のセーフティーネットだった。

 

 行政からの資金援助があまり期待できない時代。施設の運営資金はどこから出ていたのか。地元の大地主で実業家、小曽根喜一郎の存在が大きかった。友人の目加田栄と手を組み資金援助した。当初から幹事長を務め、1899(明治32)年に就任した会長職は1936(昭和11)年まで37年間も務めた。

 

小曽根喜一郎

 

 もう一つ特筆すべきことがある。設立後、明治天皇・皇后両陛下から金200円の下賜があり、天皇側近の三条実美から「盡(尽)忠報國(国)」の掛け軸が贈呈されたのをはじめ、宮内大臣・土方久元、農商務大臣・大隈重信、内閣総理大臣・松方正義、伏見宮貞愛親王ら大物が次々と視察に来ているのだ。

 

 徳川家の忠臣で明治天皇の侍従だった山岡鉄舟の流れをくむ施設という事情はあるものの、神戸の一施設に対してなぜ?

 

 創設者の目加田栄が初代の皇族祭主であった久爾宮くにのみや朝彦親王の内秘書で、伊藤博文ら政府高官らの知遇を得ていたことが大きかった。

 

目加田栄

 

 謎解きのもう一つのカギが、神戸報国義会初代会長となった池田茂もち政まさにある。

 

 池田茂政は幕末期の岡山藩9代目藩主だったが、官軍から江戸城総攻撃の先頭に立つよう要請されたとき病気を理由に断り、そのまま隠居して藩主を婿養子に譲った人物。

 

 なぜか。茂政は幕末の尊王攘夷派のリーダー、水戸藩主・徳川斉昭なりあきの九男で岡山池田家に婿養子で来て藩主になった。斉昭の七男が第十五代将軍となった徳川慶喜。つまり茂政の兄なのだ。

 

 〝最後の将軍〟を必死で守った山岡鉄舟と弟の池田茂政。2人の威光と人格が神戸報国義会の出発を支えた。

 

【網谷隆司郎】

 

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