社会福祉法人風土記<36>済昭園 中 女性のパワーで躍進

2018年0524 福祉新聞編集部
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イモの収穫(昭和31年、園の玄関前)

 「真偽は知らず、今日は長崎に〔3日前の広島と〕同じものを投下したというが一切発表はない。隠すつもりらしいのである」。作家・大佛次郎(1897~1973)は1945年8月9日に記した(『大佛次郎敗戦日記』草思社)。

 

 原爆のキノコ雲がナガサキ上空を覆った2~3日後、約70キロ離れた長崎本線・肥前鹿島駅(佐賀県鹿島市)には被ばく者が続々と救援列車で着き始めた。ひどい火傷を負い、うめき声を上げ、ホームにへたり込む人、タンカで運ばれていく人。「生存者たちの絵による証言」の黒いスケッチ(『長崎原爆戦災誌第一巻』長崎市編さん、1977年)は同駅の重苦しい様子を伝えている。

 

 光桂寺を核とする済昭園(佐賀県嬉野市)も被ばく者や原爆孤児を預かった。中国・満州から引き揚げてきた兄弟4人、大阪空襲で両親を失った戦災孤児ら、多いときには子ども20人、老人15人が肩を寄せ合った。児童養護施設として認められ(1946年4月・定員25人)、養老施設は財団法人(同年12月)へ衣替えした園が、戦後の基礎固めに入る創成期である。

 

 このころ第2代の理事長兼園長職には、創始者・小佐々祖伝尼(1872~1948)の跡を継いだ三男・徹宗和尚(1911~1963)=光桂寺第14世住職=が就いていた。1953年前後のこと。足の不自由なお年寄りをおぶって湯舟に入り、身体を洗ってあげる和尚の姿が園児の瞼まぶたに焼き付いている(済昭園『60年のあゆみ』1988年)。福祉の原点だ。社会福祉協議会などで活躍、しつけに厳しいところもあった。

 

 とぼしい衣食をアメリカからのララ物資で補いながら、建て増しして老人や子どもの定員を増やしていく。女児棟も新築した。だが、老人福祉法公布から3カ月後の1963(昭和38)年10月、戦地でかかった結核がもとで他界してしまう。訃報に接したとき、妻・国子さん(1921~2010)は東京で福祉施設幹部研修の受講中であった。

 

 

小佐々国子・第3代理事長

 

 老人ホームと児童施設、さらに寺の運営が3代目を継いだ国子理事長の肩にのしかかる。しかも、幼い3人のわが子を育てながら。「夜も寝むられない」と打ち明けている(『50年のあゆみ』1978年)。

 

 当時、老人は1階、2階に児童と同じ屋根の下の共同生活だった。72年から78年にかけ養護施設と老人ホームを別々に新築し、完全に独立させている。とはいえ秋の運動会はみんな一緒。近所の人も参加した。高齢者施設がほぼ要介護度の高い人で占められる現在からすると隔世の感がある。

 

 集団脱走した園児を佐賀市まで迎えに行く。禁止されている川遊び中に溺れて亡くなった子。東京オリンピック(1964年)に招かれ、喜んで上京した子。成人して全国各地に散っているが、さまざまな顔が来ては去っていった。

 

昭和63年、初めて幕内力士になった佐賀昇関

 

 異色の卒園生に大相撲の佐賀昇関がいる。両親を相次いで亡くし姉弟と入園、4年を過ごした。中学を終えて1977(昭和52)年、同じ佐賀県出身の元大関・大麒麟が親方の押尾川部屋へ入り、東前頭14枚目までのぼった。1996(平成8)年引退した。児童養護の荒木啓雅副施設長(56)は、「後援会づくりで会った。大柄、でもおとなしい人です」と話す。東京や大阪で相撲茶屋を開いている。

 

 資金集めに奔走し、1986(昭和61)年に特別養護老人ホームを開設、そのあと新築拡大している。初代園長は理事長の二男、小佐々裕さん(1952~2002)。全国に先駆けて造ったユニットタイプの多床室に各地から見学者が来た。「朗らかな人柄で、ギターを弾いて利用者とよく歌った」と特養生活相談員、池田奈津美さん(40)は思い出す。惜しまれつつ亡くなったが、成長・躍進期を支えた一人である。また園の住宅型有料老人ホーム「美笑庵」管理者の田中由紀子さん(47)は、「理事長から、親への感謝を忘れず、礼儀作法をしっかりと言われましたね」。

 

 その苦労は長男の良徹・第4代理事長へバトンタッチする2008年まで44年余の長きに及んだ。  

 

【横田一】

 

 

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〈36〉済昭園 上 仏教福祉の原点、光桂寺

〈36〉済昭園 下 新たな福祉のこころを

 

 

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