社会福祉法人風土記<44>びわこ学園 上 糸賀一雄 福祉哲学の原点

2019年0117 福祉新聞編集部
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大津市内の旧第一びわこ学園の全景

 「戦後最悪の大量殺人事件」「福祉施設を襲った狂気」など新聞やテレビに刺激的な見出しが並んだ。

 

 2016年7月、神奈川県相模原市の県立知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、元施設職員の男(当時26歳)が入所者19人を殺害、職員を含む27人に重軽傷を負わせた。

 

 心臓が止まるほどの衝撃に加えて、「入所者は生きている価値がないから」との犯罪動機に、体が震えるほどの怒りを覚えた人が少なくなかった。

 

 同じように〝言葉による会話〟のない重症心身障害児者施設を運営する社会福祉法人「びわこ学園」(本部・滋賀県野洲市)にもショックが広がった。

 

 山﨑正策理事長(69)は「本当にいたたまれない状況です」と悲痛な思いを吐露すると同時に、重い障害児者と日常生活を共にしてきた半世紀以上の施設の歴史を踏まえ、「全国の障害福祉に関わる職員はすべて、障害のある方々と真の強い信頼関係を築き共生の道を歩むことを願っている。今回の事件をきっかけに、社会にアピールしていきたい」と訴えた。

 

 この痛切な叫びの原点となった言葉がある。事件当時メディアで紹介された、「この子らを世の光に」だ。

 

 言葉の主は「心身障害福祉の父」といわれる糸賀一雄(1914~1968年)。

「障害者福祉の父」糸賀一雄氏

 

 

 戦後まもなく、戦災孤児と知的障害児の施設「近江学園」を創立、さらに心身障害児施設「びわこ学園」開設に尽力した。活動は滋賀県内にとどまらず、知的障害者福祉法の制定の原動力となったほか、重症心身障害児者の施設などで働くリーダーを数多く育成して、各地に送り出した。

 

 その福祉哲学を一言で凝縮したのが「この子らを世の光に」というフレーズだ。「この子らに世の光を」の間違いではないか、という声が今も絶えない。助詞の「を」と「に」の一字違いで全く意味が異なる。

 

 糸賀が54歳で急逝した1968年の初版以来、2018年発行の88版まで半世紀にわたり累計18万6000部に及ぶ異例のロングセラーとなっている糸賀の著書「福祉の思想」(NHK出版)に、その核心部分の一節がある。

 

 《この子らはどんな重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも、立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである》

 

 京都帝国大文学部哲学科を卒業後、滋賀県庁に入り、秘書課長などを歴任した後、戦後の混乱が続く1946(昭和21)年、知的障害者らの教育・医療を行う施設「近江学園」を大津市内に創設して、自らが園長になった。

 

 何年かたつうちに、てんかんや強度のノイローゼなど重度の障害をもつ子どもたちを「杉の子組」(のちに杉組)として一つの部屋に集めた。重度、重症の障害児対策を、より専門的にじっくり取り組もうという趣旨だった。

 

 ご成婚したばかりの皇太子殿下(今上天皇)が、1959年8月に行啓された際、この杉組の部屋の前で糸賀園長が「この子どもたちのために特別に考慮された施設をつくって、重症心身障害児の対策を実現したい」と説明した。そのとき既に、びわこ学園の建設計画が決まっていた。

 

 その3年後の秋、宮中の観菊会に糸賀が招待されたとき、皇太子殿下から「重症児の皆さんはお元気ですか」とお尋ねがあり、美智子妃殿下からも「この子どもさんたちのことをよろしくお願いします」とお言葉を掛けられた。

 

 その半年後の1963(昭和38)年4月、びわこ学園が開設された。近江学園から杉組の6人の児童と11人の職員が移って来てのスタートだった。

 

 精神障害、心身障害児、重症児、という存在がまだ社会に正しく認識されていない時代。重症児施設の黎明期でもあった。「情熱をもったものが歴史をつくる」という本人の言葉を、自らが実践したのだった。

 

 心身障害児施設の第1号は1891(明治24)年を源とする東京の民間施設「滝乃川学園」だった。くしくも昨年12月、天皇・皇后両陛下が、天皇として最後となる行幸啓の場としてここを訪問された。

 

 明治、大正、昭和・戦前と続く中で、幾つかの民間施設がつくられたが、今と違って国の関心も援助もない時代。貧乏人は施設の利用を諦めざるを得なかった。裕福な親は施設に持参金付きで我が子を送り込んで、そのまま親子の縁を切ろうとする例もあった。面会に来る親は世間体を恥じながら、他の親と顔を合わせることすらはばかった。

 

 そんな日本の福祉風土を糸賀が変えた。近江学園、びわこ学園の創立で変えようとした。

 

 だが、びわこ学園の初代園長は糸賀ではなかった。離陸から安定飛行に至るまで施設運営の舵を握ったのは、糸賀の京都帝大の後輩で医師の岡崎英彦(1922~1987年)だった。

 

 【網谷隆司郎】

 

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