社会福祉法人風土記<48> 光道園 中 重複障害の専門施設 誕生
2019年05月29日 福祉新聞編集部
愛盲・障害者支援運動にまい進していた中道益平(1907~78)は、受け皿となる施設の必要性を痛感し、苦難の末に光道園(昭和32年、身体障害者更生施設、定員20人)を設立する。
作業はエプロン作り、たわし作りだが、不良品の山、運営は火の車だった。しかし、中道は「まずは働くことの喜び、生きることへの希望を持ってくれることだ。やがて立派な商品ができるに違いない」と辛抱した。
翌年、42歳の〝盲精薄者〟が入所して来た。彼は、それまでの人生で働くということを知らなかった。はじめは仕事を嫌がったが、やがて、「園長さん、仕事は楽しいなあ」と喜びを表すようになった。彼の入所がその後の光道園の運命を決めた。
この出会いが契機となり中道の次の施設づくりが始まる。1966(昭和41)年、法人に二つ目の施設、わが国で初めての重複障害者(視覚障害と知的障害)専門施設「ライトセンター」(重度身体障害者収容授産施設、定員50人)が誕生した。
施設は鯖江市の北西にあり、周りは田畑のみ、日中は活気があるが夜になると静まり返り、田で鳴くカエルの声だけが響き渡っていた。「穏やかな時間と思えなくもないが、一人ひとりの心の寂しさが伝わってくるようだった。日暮れ時、入所者・石井元好さん(現在70歳)の吹くハーモニカから『ふるさと』がいつも聞こえた。いつしかハーモニカ・グループができた。そんなことから夜の交流時間を設け、やがてクラブ活動という施設の日課になり器楽クラブが生まれた」と当時新人職員(後に4代目園長)だった山内進さん(76)は語る。
その後は、はやりのグループサウンズの曲を演奏し歌いたいという声が上がる。67(昭和42)年の秋、9人編成の音楽グループ「ミックバラーズ」が誕生した。「ミック」はミックスで混ぜ合わせ、「バラーズ」はバラバラ・チグハグからもじった。園内のクリスマス会などで演奏する〝ささやかな出発〟だったが、やがて県内をはじめ、広く全国各地でも公演するまでに成長・発展する。
17年後にはバンドメンバーの出身地での「ふるさと演奏会」も開始。静岡公演が皮切りで、翌年の第3回「ふるさと演奏会」(昭和60年)は北海道岩見沢市だった。
キーボード奏者・森本保幸さん(現在64歳)は、ここが生まれ故郷。熱唱し弾き続ける最中、まぶたから一筋の涙がこぼれ落ちた。うれしさと心配が入り混じりながら、一緒に舞台に上がっていた隣の母がそっとハンカチを添えるシーンも見られた。
「公演後、森本さんの盲学校時代の恩師は『こんなにも能力のある彼の素質を見つけられなかった、私は彼に申し訳ない』と涙ぐんだ。その教師はその後何度も光道園に来られ、定年後も福祉活動を続けられた。このような教師がいたから彼の今日があると思います。人は環境条件に恵まれたとき、純粋に輝き成長していく素晴らしさを持っているんですね」と山内さんは言う。
山内さんはミックバラーズ『指先の詩』(2006年)をまとめ、器楽クラブ40余名の初の音楽演奏会(昭和43年春、県民会館)について書いている。
「中道園長は、『彼らの拙い演奏を聴いていただくことは心苦しい限りですが、皆懸命に表現しようとしています。皆さんからの拍手は彼らの心に何かピンとくるものがあり、明日からの生活の大きな力になることと思います。彼らもまた日本の1億国民の一人ひとりであり、人生の幸せを得る権利を持つ一人ひとりです。まだ小さな灯ですが、皆さんの手で燃え盛る大きな灯にしていただきたい』と観客に重複障害者への支援を訴えた。光道園職員にとっても役割や使命を再認識させられた重い一言だった」
その年の秋、現上皇上皇后陛下が施設を訪問し利用者たちを励ましている。バンド結成から半世紀が過ぎた現在、メンバーも高齢化し重複障害に加えて加齢による障害も増え、全盛期のような演奏は難しい。企画調整室の現バンド担当者・青山直人さん(42)は「今は〝楽しむ〟という原点を大事にし、無理はせずに練習は続けます」と言う。全盛期もあり、下るときもやがて訪れるが、人生で大事なことは何か、そんなことを光道園とミックバラーズは私たちに教えてくれる。
【荻原芳明】
日本法令 (2018-09-20)
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